殖田謙吉とは? わかりやすく解説

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殖田謙吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/19 00:21 UTC 版)

殖田 謙吉(うえだ けんきち、1870年12月24日明治3年11月3日) - 1904年(明治37年)9月4日)は、大日本帝国海軍軍人。最終階級海軍少佐。庄屋殖田覚十郎の二男として生まれる。母方姓是恒[2]大分県宇佐郡駅館村出身。第2次吉田内閣法務総裁殖田俊吉は甥である[3]


  1. ^ 「海軍兵学校出身者戦死者芳影録」84ページ
  2. ^ 雲栖寺(現住職滝口氏)境内の顕彰碑に「君諱謙吉殖田氏 考諱覚十郎妣是恒氏 君性沈毅温厚幼立志…」(題字東郷海軍大将 明治44年3月)とある。
  3. ^ 「日も行く末ぞ久しき」(昭和14年松山基範 望郷の旅)前中一晃 P13
  4. ^ 「海軍兵学校沿革」P413-P415
  5. ^ 『大海軍を想う』188頁
  6. ^ 日本海海戦時は「臨戦準備」の段階で、セマホア信号機を取り外す。
  7. ^ この時、東郷司令長官、島村参謀長、上野航海長、加藤砲術長も最上前艦橋で指揮をとっていたが、秋山参謀はいなかった。「特務士官が語れる日露海戦の思ひ出話其一 昭和4年 海軍省教育局」より。記念艦三笠に「勇士戦死のところ」の銅板がある。
  8. ^ 極秘明治三十七八年海戦史/連合艦隊戦時日誌
  9. ^ 4月20日、有馬は大本営付となり三笠退艦。
  10. ^ 大蔵省租税課に出仕。麹町区元園町に居宅を構える。機関学校受験時の身元引受人。後に衆議院議員となる。
  11. ^ 『海軍兵学校沿革』「明治二十四年七月十七日」
  12. ^ アジア歴史資料センター「海陸軍雇入商船の配乗員」C08040473400
  13. ^ 『明治28年1月1日 現在艦船艇其他配員表』
  14. ^ 元神奈川県令中野健明の娘
  15. ^ 「官員録/職員録」明治36年5月
  16. ^ 「三笠戦時日誌」、「連合艦隊戦時日誌」明治37年4月27日
  17. ^ 『官報』第5963号「叙任及辞令」1903年5月21日。


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