梅若流の分裂と観世流合流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/11 03:10 UTC 版)
このようにして梅若流は出発したが、直後の関東大震災によって梅若六郎家は能舞台を失ってしまう。大打撃を受けた梅若流に追い打ちをかけるように、1932年(昭和7年)までには観世鐵之丞家、梅若万三郎家が次々に観世流に復帰し、梅若流には梅若六郎家のみが残された。五十四世梅若六郎のもとにも観世流への復帰を仲介する声がかかったが、五十四世は「少なくとも自分の代で観世流に復帰するのでは筋が通らない」とこれを拒み、結局、五十四世が隠居して二世梅若実となり、五十五世梅若六郎が梅若流家元となっていた1954年(昭和29年)になって、ようやく能楽協会の斡旋により、梅若流の観世流合流が果たされた。
※この「梅若流の分裂と観世流合流」の解説は、「梅若流」の解説の一部です。
「梅若流の分裂と観世流合流」を含む「梅若流」の記事については、「梅若流」の概要を参照ください。
- 梅若流の分裂と観世流合流のページへのリンク