柴田勝重
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柴田 勝重(しばた かつしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、江戸幕府旗本。柴田勝家の孫にあたる人物(勝家の養子である柴田勝政の子)で、徳川家康に召し出されて大坂の陣で武功を挙げた。通称は三左衛門。
注釈
- ^ 『寛政譜』では「浄英」[2]。『新編武蔵風土記稿』の春清寺の項では「揚源院殿雄山海英居士」が中興開基とある[4]。
- ^ 吉時は高吉の弟。
- ^ ただし織田家側の家譜には記載がない[5]。
- ^ 後に家に帰って僧になり、「威徳院」と称して野川天神の別当となった[2]。野川天神はのちに移転して新川天神社(現在の新川二丁目)となり、その隣にこの人物が開基とされる威徳院(曹洞宗)がある。
- ^ ただし飯高家の家譜には妻の記載がない[6]。
- ^ 『寛政譜』に記された没年からの逆算。
- ^ なお、下仙川村は飯高家の知行地で[9]、柴田家の家譜に娘の嫁ぎ先として記された飯高七兵衛貞勝はこの家の出身である。
- ^ 賤ケ岳の合戦が発生した年や北ノ庄落城の年など、史実とは異なる記述も含まれる[14]。
- ^ 三鷹市には指定文化財と登録文化財があり、この物件は登録文化財である[20]。
出典
- ^ 『寛永諸家系図伝』、『寛政重修諸家譜』
- ^ a b c d e f g h 『寛政重修諸家譜』巻第三百七十二、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.1105。
- ^ a b c d e f g h i j 『寛政重修諸家譜』巻第三百七十二、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』p.1104。
- ^ a b 『新編武蔵風土記稿』巻之九十四「上仙川村」、内務省地理局刊本十丁左。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第四百九十二、国民図書版『寛政重修諸家譜 第三輯』pp.579-580。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第千百八十、国民図書版『寛政重修諸家譜 第七輯』pp.150-151。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第三百七十二、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』pp.1104-1105。
- ^ a b c d e 馬場憲一 2015, p. 157.
- ^ a b c “II 北野遺跡(2)”. みたか遺跡展示室. 三鷹市埋蔵文化財調査室. 2021年8月29日閲覧。
- ^ a b c d “行ってみよう!三鷹の歴史スポット 新たな登録史跡 柴田勝家兜埋納伝承地(しばたかついえかぶとまいのうでんしょうち)から始まる歴史散歩”. 広報みたか2012年7月15日1面. 三鷹市. 2021年8月29日閲覧。
- ^ “中近世のみたか”. みたか遺跡展示室. 三鷹市埋蔵文化財調査室. 2021年8月29日閲覧。
- ^ 『新編武蔵風土記稿』巻之九十四「上仙川村」、内務省地理局刊本十一丁右。
- ^ 『新編武蔵風土記稿』巻之九十四「上仙川村」、内務省地理局刊本十丁右。
- ^ a b 馬場憲一 2015, p. 156.
- ^ a b 馬場憲一 2015, pp. 161–162.
- ^ 馬場憲一 2015, p. 162.
- ^ a b c d e f g 馬場憲一 2015, p. 158.
- ^ 馬場憲一 2015, pp. 165–166.
- ^ 馬場憲一 2015, pp. 158–159.
- ^ “市内の文化財一覧”. 三鷹市. 2021年8月30日閲覧。
- ^ 馬場憲一 2015, p. 169.
- ^ a b “兜塚”. 東京都神社庁. 2021年8月29日閲覧。
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