板垣守正
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板垣 守正(いたがき もりまさ、明治33年(1900年)3月15日 - 昭和26年(1951年)7月16日)は、日本の劇作家。士族。伯爵板垣退助の孫、鉾太郎の次男。母は松本丑太郎の長女節子(せつこ)。号は青牛。宗旨は曹洞宗。別名は山内守正。
- ^ 「戯曲『自由党異変』で板垣家に紛争のうづ。思想的立場の相違から筆者の故伯嫡孫守正氏遂に廃嫡に決す」『東京朝日新聞』大正14年(1925年)10月20日号
- ^ 「祖父も相原も人間的に見た。虚偽の生活は出来ぬ。自由になれれば幸い。当の守正君は語る」『東京朝日新聞』大正14年(1925年)10月20日号
- ^ 「一方、舞台協会では守正君の意気に感じあくまでも上演する事に決したといふ。そして恐らく問題が大きくなればなる程、興行政策からいへば望ましい事だらうと芝居仲間では穿つた噂さへしている」『東京朝日新聞』(大正14年(1925年)10月20日号)
- ^ 「板垣守正君の『自由党異変』上演問題では帝劇の山本専務や大倉社長などに対して上演阻止、脅迫状や圧迫がましい運動が盛んなさうだが、帝劇側はこんな事には慣れたもので、ひとりでニヤニヤ笑つてゐる」『東京朝日新聞』(大正14年(1925年)10月21日号)
- ^ 板垣家側の「『自由党異変』が世に出る時には、旧自由党員も華々しく応援する」という文言は、「上演差止」めと「守正廃嫡」の法的な裁許が下りるまでの時間稼ぎであった可能性が高い。また、守正側は祖父板垣伯の遺品の一部を後継者の実弟・板垣正貫側に渡さないなどの対抗措置を行っている
- ^ 『新聞集成 昭和編年史』の1928年1月27日記事によると、「板垣守正氏民政党に入る」とある。
- ^ 「祖父の築いた城にお尻。民政党に入つて驚かした板垣守正君の気焔」『東京朝日新聞』(昭和3年(1928年)1月27日号)
- ^ 「お尻を向けた守正氏を勘当。恩人等への申訳をと。親族会議で決めた板垣家」『東京朝日新聞』(昭和3年(1928年)2月4日号)
- ^ 「仙石新総裁が引き立て役に。板垣守正君を秘書にして満鉄につれて行く」『東京朝日新聞』(昭和4年(1929年)8月27日号)
- ^ 『満洲紳士録(第4版)』中西利八編、1334頁
- ^ 『毎日新聞』(昭和26年7月18日朝刊)の記事によると「午後8時半 村立診療所で胃癌のため死去。享年52歳。告別式は同21日午後2時から東京芝の青松寺」とあり、『朝日新聞』によると「大根村鶴巻園の仮宅にて午後10時死去。51歳。夫人桃子さん(39歳)と一子があり」とある。
- ^ 『板垣精神』一般社団法人板垣退助先生顕彰会編纂
- ^ 戸籍上は、板垣鉾太郎の四男
- ^ 昭和5年(1930年)1月26日高知県安芸郡北川村大字野川 尾崎旦の養子となる。
- ^ 戸籍上は、板垣守正の長男
- ^ “昭和26年(1951)7月 活版・墨書 1通 父板垣守正 告別式の案内状(差出人 喪主板垣正明・板垣桃子, 宛先 浅沼稲次郎)”. 『浅沼稲次郎関係文書(その2)書簡の部目録』国立国会図書館憲政資料室 (2012年6月1日). 2014年6月16日閲覧。
- ^ 父守正認知届出済。のち昭和15年(1940年)4月6日広島県芦品郡駅家町大字服部永谷 三島薫、同人妻美代子の養子となる。
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