春と修羅
作者高橋源一郎
収載図書ミヤザワケンジ・グレーテストヒッツ
出版社集英社
刊行年月2005.5
春と修羅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/30 13:44 UTC 版)
『春と修羅』(はるとしゅら)は、宮沢賢治の制作した口語詩。また、同作品を収録した詩集のタイトルでもある。賢治の生前に唯一刊行された詩集として知られる。賢治はそれに続いて制作した作品にも同じタイトルを付けて詩集として続刊することを企図していた。(それぞれ『春と修羅 第二集』『春と修羅 第三集』)ここではそれらも含めて記載する。
注釈
- ^ この原稿は賢治の没後、行方不明となっていたが、1945年8月の花巻空襲の後、くすぶっていた実家の土蔵から発見された[6]。現存は「春と修羅」以降の原稿で、「序」など冒頭の推定11枚は逸失[7]。
- ^ 富永の1925年1月16日付正岡忠三郎宛書簡に言及がある[14]。
- ^ 中原中也と親交のあった大岡昇平によると、中也は1928年頃に渋谷の夜店にあるゾッキ屋で1冊5銭で売られていた『春と修羅』を「五冊ぐらい」まとめ買いしてその1冊を大岡に与え、残りは「誰かにやるのだ」と言って持ち帰ったという[16]。大岡は、中也がこのような勧め方をした詩集は「あとにも先にも『春と修羅』だけである」と記している[16]。大岡はこの文章の中で、中也の賢治に対する見方を考察した。
出典
- ^ 入沢康夫「解説」『宮沢賢治全集1』、p.719
- ^ 入沢康夫「本文について」『宮沢賢治全集1』、p.699
- ^ a b c 入沢康夫「本文について」『宮沢賢治全集1』、p.700
- ^ a b 入沢康夫「本文について」『宮沢賢治全集1』、p.698
- ^ 堀尾、1991年、p.220
- ^ 宮沢清六「燻蒸された原稿」『兄のトランク』筑摩書房、1987年(初出は雑誌『四次元』1955年1月号、宮沢賢治研究会)
- ^ 『【新】校本宮澤賢治全集 第二巻【校異篇】』筑摩書房、1995年、pp.10 - 11。前記「燻蒸された原稿」では「7枚」と記載していた。
- ^ 入沢康夫「本文について」『宮沢賢治全集1』、pp.701 - 702
- ^ 入沢康夫「解説」『宮沢賢治全集1』、pp.724 - 727
- ^ 鈴木健司『宮沢賢治 幻想空間の構造』蒼丘書林、1994年、pp.35 - 46
- ^ 堀尾、1991年、p.222
- ^ 尾山篤二郎「最近の書架から」『自然』第3巻4号、1924年6月1日刊(『【新】校本宮澤賢治全集 第十六巻(上)【補遺・資料篇】』筑摩書房、1999年、pp.415 - 416に収録)
- ^ 『【新】校本宮澤賢治全集 第十五巻 書簡【本文篇】』筑摩書房、1995年、pp.233 - 234(1925年12月20日付)
- ^ 『【新】校本宮澤賢治全集 第十六巻 (上) 【補遺・資料篇】』筑摩書房、1999年、pp.513 - 514(初出は大岡昇平『富永太郎 : 書簡を通して見た生涯と作品』中央公論社、1974年)。
- ^ 中原中也「宮沢賢治全集」(外部リンクは青空文庫)。この文章は、初の賢治全集(文圃堂版)の最初の配本がなされた1934年に執筆された。
- ^ a b 大岡昇平「宮澤賢治と中原中也」『校本宮澤賢治全集第十巻 月報』筑摩書房、1974年
- ^ 堀尾、1991年、pp.223 - 225
- ^ 堀尾、1991年、p.229
- ^ “宮沢賢治の詩集「春と修羅」、三木露風が称賛 詩人2人が生前交流 手紙の控え発見”. 神戸新聞. (2021年8月22日) 2021年8月23日閲覧。
- ^ “賢治と露風の意外な接点、研究者「偶然の発見に興奮」 露風、献本の詩集読んですぐ返信”. 神戸新聞. (2021年8月22日) 2021年8月23日閲覧。
- ^ “岩手)賢治自筆署名の「春と修羅」初版を寄贈”. 朝日新聞. (2019年5月25日) 2019年5月25日閲覧。
- ^ a b c d e 入沢康夫「解説」『宮沢賢治全集1』pp.735 - 739
- ^ 入沢康夫「解説」『宮沢賢治全集1』、p.744
- ^ 入沢康夫「解説」『宮沢賢治全集1』、p.741
- ^ 天沢退二郎「解説」『新編 宮沢賢治詩集』 p.443
- ^ 入沢康夫「解説」『宮沢賢治全集1』、p.740
- ^ 入沢康夫「解説」『宮沢賢治全集1』、p.743
- ^ 天沢退二郎「解説」『新編 宮沢賢治詩集』 p.444
- ^ 天沢退二郎「解説」『新編 宮沢賢治詩集』 p.445
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