日本通の四巨頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/10 22:51 UTC 版)
南京陸軍第4中学を卒業した後に日本に留学し、陸軍経理学校、陸軍高等経理学校を卒業した。帰国後の1913年(民国2年)に、江蘇陸軍第3師第1旅参謀長に任命される。1917年(民国6年)、参戦軍経理科長となった。1921年(民国10年)、陸軍部統計科科長、淄川鉱業所所長、両淮四岸公所董事をつとめる。1928年(民国17年)、河北省塩務監督員となった。この頃までに、殷同は殷汝耕、袁良、程克とともに、日本通の四巨頭と目されるようになっている。 国民政府が成立した後の1933年(民国22年)5月、殷同は塘沽協定の交渉で中国側委員の1人となっている。翌月、行政院駐平政務整理委員会顧問兼華北戦区接収委員会委員に任ぜられた。以後、駐平政務整理委員長・黄郛の「ブレーン・トラスト」の1人と目されることになり、日本との交渉などにあたっている。同年10月、北寧鉄路管理局局長に異動した。1935年(民国24年)に鉄道部顧問、1937年(民国26年)に鉄道部参事を歴任している。
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