日本式銃剣術の制定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 15:29 UTC 版)
1887年(明治20年)、フランス人教官が解雇帰国すると、フェンシングや西洋式の銃剣術を取りやめ、日本の伝統的な剣術や槍術を元にした独自の軍刀術・銃剣術を制定する動きが起こった。銃剣術については、まだ槍術が指導されていた宮内省済寧館に戸山学校教官が派遣され、槍術が研究された。 1890年(明治23年)、戸山学校長・大久保春野大佐は、フランス式剣術・銃剣術の廃止と日本式軍刀術・銃剣術の制定を決定した。その後、戸山学校体操科長で剣術家(津田一伝流第2世)の津田教修大尉を中心に宝蔵院流槍術の伝書などを研究し、1894年(明治27年)、宝蔵院流や佐分利流などの日本の伝統的な槍術をもとにした日本独自の銃剣術が制定された。 1915年(大正4年)、槍術の払い技をもとにした技を加えるなどの改定が行われ、『陸軍剣術教範』の内容も改められた。1921年(大正10年)には、着剣(銃剣を小銃に装着)していない状態の銃剣を用いる戦技として、日本の伝統的な小太刀術をもとに短剣術(現・短剣道)も制定された。
※この「日本式銃剣術の制定」の解説は、「銃剣道」の解説の一部です。
「日本式銃剣術の制定」を含む「銃剣道」の記事については、「銃剣道」の概要を参照ください。
- 日本式銃剣術の制定のページへのリンク