新倉雅美
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新倉 雅美(にいくら まさみ、1937年[1] - 1986年5月消息不明)は、日本の元アニメーション監督。日放映動画スタジオ、東京テレビ動画元代表取締役、日本テレビ動画元社長。プロデューサーとしての名義は本名の渡邊 清(わたなべ きよし)である。
- ^ a b c d 『朝日新聞』1986年5月11日 東京朝刊23頁
- ^ a b c d e f g 『週刊アサヒ芸能』1986年6月5日号。この記事の紙面写真および掲載内容の抜粋が『封印作品の憂鬱』pp.78 - 81に掲載されている。
- ^ 日テレ版ドラえもんを仕掛けた日本テレビ動画社長の新倉雅美がキャリア最初期に在籍してた「動画プロ」について - Togetter 2020年4月12日
- ^ a b 安藤、2008年、p.66(『戦え!オスパー』元スタッフの証言)
- ^ 安藤、2008年、p.66
- ^ 安藤、2008年、p.67
- ^ 安藤、2008年、p.68
- ^ 安藤、2008年、p.69
- ^ a b c 安藤、2008年、pp.70 - 73
- ^ 安藤、2008年、p.73
- ^ 安藤、2008年、p.56
- ^ a b c 安藤、2008年、p.76
- ^ 真佐美ジュンさんに聞く(個人サイト)
- ^ 安藤、2008年、pp.51 - 54。
- ^ a b 安藤、2008年、p.61
- ^ a b 旧ドラえもん製作者証言(真佐美ジュンへのインタビュー、個人サイト)
- ^ 真佐美の証言にある「会長」とは、登記上の代表取締役だった稲庭左武郎を指すとみられる(安藤、2008年、p.65、75)
- ^ 安藤、2008年、p.79
- ^ a b 安藤、2008年、p.82
- ^ 未放映作品としているが、中国・四国地方でプロ野球中継の雨傘番組として放送されたという話があるほか、広島で放送されたという話もあるが詳細は定かではない。徳間書店から『TVアニメ25年史』が刊行された際、かつて本作の16ミリプリントを保管していたとされるフィルム倉庫を編集部が特定するに至ったが、結局フィルム自体は発見できなかったものの、2022年に国映からフィルムが発掘され、ようやく日の目を見た。
- ^ 記憶のかさブタ「幻のパイロットフィルム特集」
- ^ 『フータくん』パイロット・フィルムの謎を追う - 藤子不二雄ファンはここにいる
- ^ 小黒祐一郎+原口正宏 (2006年1月20日). “「アニメラマ三部作」を研究しよう! 杉井ギサブロー インタビュー(後編)[再掲]” (日本語). 小黒祐一郎. 株式会社スタイル. 2019年6月26日閲覧。
- ^ 赤塚不二夫保存会/フジオNo.1「日の目を見なかった?幻の日本テレビ動画版『天才バカボン』パイロット・フィルム」
- ^ ノンクレジット。企画提携は、日本テレビの藤井賢祐プロデューサーと日本テレビ動画の佐々木一雄プロデューサー。
- ^ 藤子不二雄FCネオ・ユートピア会報誌43号「特集・日本テレビ版ドラえもん」(2006年12月初版発行、2009年8月改訂版発行)
- ^ 記憶のかさブタ「旧ドラえもん製作者証言」
- ^ a b 安藤、2008年、p.69
- ^ 安藤、2008年、pp.84 - 85
- ^ 安藤、2008年、p.85
- ^ 安藤、2008年、p.101
新倉雅美
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「ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!」の記事における「新倉雅美」の解説
われわれの製作意図は、既成の歪んだエロティシズム、つまり、支配者が目論んだ性の管理統制だ。(中略)映画配給会社との契約決定もないまま、製作していた。このDo it宣言に最初の共鳴、支持をよせたのが日本ヘラルド映画であった。まず、製作期間はまる六ヶ月を要した。これに投入された延人数は二万一千六百人になる。(中略)東京テレビ動画は、常に未来にむかって前進しています。エロス革命の戦士として活躍するヤングウーマンを控えて、未来にむかってとどまることを知らない会社─は、きっと若者の真の解放を達成することでしょう。
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