バルソン
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/27 17:49 UTC 版)
典拠
- ^ a b c “太祖4年 (1395) 12月14日段733”. 朝鮮王朝實錄. 8
- ^ “太祖6年 (1397) 1月24日段918”. 朝鮮王朝實錄. 11
- ^ a b “太宗4年 (1404) 4月3日段2351”. 朝鮮王朝實錄. 7
- ^ a b “太宗5年 (1405) 1月7日段2529”. 朝鮮王朝實錄. 9
- ^ “毛憐衞”. 柳邊紀略. 2. 不詳
- ^ “阿哈出”. 清史稿. 222
- ^ a b c d e 六. “明末清初の満洲氏族とその源流”. 東洋史研究: 71-74.
- ^ a b “金國語解 (姓氏)”. 金史. 135
- ^ “世宗17年 (1435) 9月29日段12222”. 朝鮮王朝實錄. 69
- ^ “世宗20年 (1438) 1月6日段12988”. 朝鮮王朝實錄. 80
- ^ 蒙古帝国におけるトゥメン (万戸) との関聯性は不明。ここでの万戸は千戸 (猛安ミンガン)、百戸に対する呼称。
- ^ a b “太宗5年 (1405) 5月16日段2625”. 朝鮮王朝實錄. 9
- ^ “太宗4年 (1404) 4月27日段2366”. 朝鮮王朝實錄. "○……帝遣王可仁于女眞,欲設建州衛,故欲據此對之也。"
- ^ a b “太宗4年 (1404) 4月4日段2352”. 朝鮮王朝實錄. 7. "○可仁,本我朝東北面向化人,爲太上潛邸時麾下,賴太上王薦拔,官至樞密。高皇帝時召還,改名脩,至是已十五年,妻子皆無恙。"
- ^ “太宗4年 (1404) 4月4日段2352”. 朝鮮王朝實錄. 7. "……今招諭參散・禿魯兀等一十一處,溪關萬戶寗馬哈、參散千戶李亦里不花、禿魯兀千戶佟參哈・佟阿蘆、洪肯千戶王兀難、哈蘭千戶朱蹯失馬、大伸千戶高難都夫、失里千戶金火失帖木、海童千戶董貴洞、阿沙千戶朱引忽、幹合千戶劉薛列、阿都歌千戶崔咬納・崔完者。……"
- ^ a b “太宗4年 (1404) 4月9日段2355”. 朝鮮王朝實錄. 7
- ^ a b “太宗4年 (1404) 5月5日段2374”. 朝鮮王朝實錄. 7
- ^ a b “太宗4年 (1404) 7月14日段2421”. 朝鮮王朝實錄. 8
- ^ a b c “第六篇 - 一.北滿洲に於ける交通路 - 二.納丹府東北陸路”. 滿洲歷史地理. 2. 南満州鉄道株式会社. pp. 440-441
- ^ “太宗5年 (1405) 3月14日段2576”. 朝鮮王朝實錄. 9
- ^ a b c “太宗5年 (1405) 4月20日段2606”. 朝鮮王朝實錄. 9
- ^ a b “太宗5年 (1405) 4月25日段2610”. 朝鮮王朝實錄. 9
- ^ “太宗五年 (1405) 八月28日段2694”. 朝鮮王朝實錄. 10
- ^ “太宗五年 (1405) 九月3日段2697”. 朝鮮王朝實錄. 10
- ^ a b “永樂3年12月12日段8656”. 明太宗實錄. 49
- ^ “太宗六年 (1406) 三月6日段2822”. 朝鮮王朝實錄. 11
- ^ 「我等順事朝鮮二十餘年矣。朝鮮向大明交親如兄弟,我等何必別事大明乎?」「我等順事朝鮮,汝妄稱使臣,亂雜往來。」「不變素志,仰事朝鮮無貳心。」「此時不入江南,則猛哥帖木兒(兒),必受聖旨,以予爲管下百姓,故不得已入朝,還來則如前仰事朝鮮。」
- ^ “太宗10年 (1410) 2月3日段3865”. 朝鮮王朝實錄. 19
- ^ “太宗10年 (1410) 2月10日段3870”. 朝鮮王朝實錄. 19
- ^ “太宗10年 (1410) 2月22日段3880”. 朝鮮王朝實錄. 19
- ^ “太宗4年 (1404) 4月4日段2352”. 朝鮮王朝實錄. 7
- ^ “太宗4年 (1404) 5月19日段2384”. 朝鮮王朝實錄. 7. 不詳
- ^ “太宗5年 (1405) 5月2日段2615”. 朝鮮王朝實錄. 9
註釈
- ^ 参考:三田村に拠れば、瓜爾佳グヮルギャは明末に「ko-er-gi」と発音され、満洲口語では「korgiya」であった。
- ^ 参考:なお、「金國語解」には「移剌曰劉」とも記されているが、三田村はこれについては触れていない。
- ^ 参考:現遼寧省鉄嶺市の位置よりも南にあり、後に現在の位置に移設された。鉄嶺市に属する県級市・開原市も後になって現在の位置に移設されたもので、元は現在の黒龍省内にあった「開元」とされる。
- ^ 参考:これと並行して、王可仁は兼進兀狄哈ウディゲ、骨看兀狄哈ウディゲの部落を招撫した。
- ^ 参考:その一週間ほど前にモングティムルは「李行計稟事,帝雖兪允,我若此時不入朝,則於虛出必專我百姓,故不得已入朝。」と李朝に言い訳をして入朝している。
- ^ 参考:吾音會、阿木河、斡木河
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