愛久澤直哉
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愛久澤 直哉(あくざわ なおや[注釈 1]、1866年(慶應2年)[1] - 1940年(昭和15年)8月17日[2])は、明治後期から昭和10年代にかけての実業家。日本統治時代の台湾において農場経営ならびにマレー半島においてゴム園を経営していた三五公司(さんごこうし[注釈 2])の設立者であり経営者である。
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愛久澤 直哉
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1940年(昭和15年)8月17日)は、明治後期から昭和10年代にかけての実業家。日本統治時代の台湾において農場経営ならびにマレー半島においてゴム園を経営していた三五公司(さんごこうし)の設立者であり経営者である。
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