後光明天皇
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後光明天皇(ごこうみょうてんのう、1633年4月20日〈寛永10年3月12日〉- 1654年10月30日〈承応3年9月20日〉[1])は、日本の第110代天皇(在位: 1643年11月14日〈寛永20年10月3日〉 - 1654年10月30日〈承応3年9月20日〉)。諱は紹仁(つぐひと)。幼名は素鵞宮(すがのみや)。
- ^ 中御門宣順の『宣順公記』承応3年10月17日条によれば、後光明天皇は高貴宮誕生直後に勾当内侍を通じて幕府から派遣されていた禁裏附高木守久に相談したところ、高木は将軍(家綱)は「(天皇が)善処されるべき」とおっしゃるであろうから、幕府への勅使派遣は急ぐ必要はないのでは、と回答したという。また、天皇の側近である勧修寺経広・三条西実教・持明院基定も崩御直後にその話を後水尾院や摂家に述べたという。
- ^ 室鳩巣の『鳩巣小説』によれば、天皇の病状悪化のため、関東から医師を参上させて薬を勧めたが、天皇は服用を拒んだ。しかし、京都所司代の土井大炊頭が強く勧めたので、やむなく服用したところ、容態が急変したという。文中に毒殺とは明記されないが、それを暗示するかのような表現である。しかし、この記事は正徳5年(1715年)5月6日付の鳩巣の手紙によるとあるから、崩御より60年ほど後のものである。しかも、崩御時の所司代は板倉重宗である。「土井大炊頭」で有名なのは秀忠・家光の下で老中・大老を務めた土井大炊頭利勝だが、利勝は後光明天皇即位の年に死去しており、跡を継いだ土井利隆は京都所司代にはなっていない。土井氏で京都所司代になったのは後光明天皇の時代より後の18世紀に所司代となった、土井利里のみである。幕府が天皇の病状悪化を知って医師武田道安を上洛させたことは事実であるが、天皇は道安出発の前日に崩御している。
- ^ なお第一位は大正天皇の1367首で、第三の嵯峨天皇が97首の漢詩を遺した。石川忠久、『漢詩人 大正天皇 - その風雅の心』p.10
- 1 後光明天皇とは
- 2 後光明天皇の概要
- 3 系譜
- 4 后妃・皇子女
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