富益村とは? わかりやすく解説

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富益町

(富益村 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/19 05:49 UTC 版)

富益町(とみますちょう)は、鳥取県米子市町名。丁番を持たない単独町名である。2012年(平成24年)1月1日現在の人口は4,777人。郵便番号683-0103(米子郵便局管区)。本項では同地域にかつて所在した会見郡西伯郡富益村についても述べる。


  1. ^ 士分の在方役人に対して郡村行政の実務を担当したのが大庄屋以下の農村自治役人であり、在役人と呼ばれた。在役人はまた郡政を担当する郡役人と、村政を担当する村役人に区分される。郡村行政の最高責任者が大庄屋で、藩初期の会見郡には4名が配置され、会見郡を4構に区分して各々の行政を分担した。宗旨庄屋は寛文10年(1633年)ころから各郡1、2名あて新設された。寛文10年(1633年)の『大庄屋給帳』によると、会見郡には4名の大庄屋が配置されており、その内の一人車尾村次郎左衛門(深田氏)が浜目地区を担当したものと推定される。以後元禄初年までの浜目地区担当の大庄屋としては、小篠津村の角次郎左衛門角半左衛門角三郎兵衛、車尾村深田三郎右衛門が続き宗旨庄屋には延宝7年(1679年)以後元禄初年まで角与兵衛があり、その間与兵衛は組頭庄屋をも兼帯していた。郡役人を歴任した小篠津村角氏には現在の小篠津村「本角家」先祖と通称「麦垣角」の2系統があったといわれている。当時の小篠津村は、南弓浜開発の中心基地となった村であり、角家は新田開発の先導役として弓浜半島の豪農に成長したものと思われる(『境港市史 上巻』昭和61年、336-342頁)。「紀氏譜記」には江戸期の小篠津村の旧家角与兵衛も紀氏一門の末葉につながる由緒を伝えている(『境港市史 上巻』昭和61年、17頁)
  2. ^ 『境港市史 上巻』昭和61年 370頁
  3. ^ a b 『米子商業史』483頁
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 『米子商業史』484頁
  5. ^ 宝永戉子=5年、1708年
  6. ^ いばらをぬきとり雑草を刈りとる、荒地を開拓すること。
  7. ^ 星行=星の出ている早朝出かけ夜になって帰る。
  8. ^ 閔々孜々=ともにひたすら努力すること。
  9. ^ 南畝=田畑の通称。
  10. ^ 霑体=あるいは霑汗かもしれぬ。汗を流して苦労する意。
  11. ^ 元元=庶民、愛すべき民。
  12. ^ 文化元年は1804年
  13. ^ 『米子商業史』118頁


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