大木喬任の法典編纂事業
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「民法典論争」の記事における「大木喬任の法典編纂事業」の解説
1873年(明治6年)、大木喬任が司法卿に就任。省内部にも江藤の強引な民法編纂への反発があり、大木も慎重派の性格だったことや、箕作および来日直後のボアソナードが台湾出兵の後始末に追われたことから、司法省の民法編纂事業は約2年停滞。 台湾問題につき国際法の知見を活かしたボアソナードの貢献は著しく、明治天皇からも賞され、一介のお雇い外国人とは一線を画するようになる。磯部が法律界の「團十郎」に例えたほど、彼の言は権威を持った。
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