大仏のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 23:41 UTC 版)
頭部を失った奈良の大仏は、永禄11年より山田道安の手によって補修と修理を実施したが、戦国の争乱で十分な資金が集まらなかったようで、頭部を銅板で仮補修した程度にとどまり、大仏殿のほうはその目途すら立っていなかった。その後何度か大仏再興の動きはあったが、こちらも充分な資金が集まらず、遅々として進まなかった。大仏はその間雨風にさらされ続けていた。そのような中貞享元年(1684年)に公慶によってようやく本格的な復興計画が立案され、江戸幕府の援助のもと、貞享4年(1687年)から建設用の資材が用意され、宝永2年(1705年)に棟上げが行われ、宝永6年(1709年)3月21日に盛大な落成供養が営まれ、今日のような寺院の構成となった。ちなみにその後、大仏は明治10年(1877年)より大正4年(1915年)まで長期による大規模な修復が実施された。
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