外科医学院へ向けて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/02 17:18 UTC 版)
「アイルランド王立外科医学院」の記事における「外科医学院へ向けて」の解説
1765年にリムリック出身の外科医シルベスター・オハロランは、1255年にルイ9世の王室憲章によって創設された外科医の養成と規制を目的として、フランスの外科医を規制していたパリの聖コスメカレッジに倣い、外科医学院を設立することを提案した。ダブリン外科医協会は、1780年にエセックス通り(現在のパーラメント通り)のエレファント・パブリック・ハウスで設立された。ダブリン大学トリニティ・カレッジでは1847年まで外科を教えていなかったため、アイルランドには外科に特化した学校が全くなかった。 標準化された外科教育を提供することに重点を置いた独立した組織を持つことが、この協会の目標の一つとなり、王立憲章を求め、1781年には理容師とは別に法人化されるようにとの嘆願書をアイルランド総督に提出した。待ちに待った憲章は、1784年2月11日にジョージ3世によって承認された。初代学長のサミュエル・クロッカー・キングと初代外科教授のウィリアム・ディーズを含む統治体は、3月2日にロタンダ病院の役員室で初めて会合を開いた。当時から入学や雇用が宗派的な理由で差別されていなかった。創設者であるシルベスター・オハロランとウィリアム・ディースの2人と、最初の57人の学長のうち11人はカトリック教徒だった。1856年からカトリック大学が授与している医学資格も認めており、それが卒業証書に正当性を与えていた。最初の受験は、1784年8月だった。
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