変法運動での挫折
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 04:27 UTC 版)
父の熊兆祥は、衡州澄湘水師営管帯をつとめた。熊希齢は、14歳で秀才となる。1891年(光緒17年)秋に挙人となった。翌年4月、会試に参加して貢士となる。1894年(光緒20年)の殿試に参加して進士となり、翰林院庶吉士を授かった。 同年の日清戦争の後、熊希齢は国政改革への意欲を高め、張之洞の下で両湖営務処総弁に任命された。この時に、熊は『軍制篇』と呼ばれる書物を著し、軍制改革の必要性を主張した。その後、湖南巡撫に就任した陳宝箴により新政が開始されると、熊はその下で実業・教育の振興を建議し、実行に移している。 1897年(光緒23年)には、湖南時務学堂を創設し、熊希齢は総理となった。熊は変法派の梁啓超、譚嗣同などを教員として招聘し、唐才常も新政下にあった湖南で活動した。しかし、省内で次第に変法派と反変法派の争いが激化し、反変法派の糾弾を受けて熊は失脚してしまう。さらに変法派が戊戌の政変で壊滅したため、熊は悲観・失望の余り、4年間自ら蟄居してしまった。
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