吾妻連峰雪山遭難事故とは? わかりやすく解説

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吾妻連峰雪山遭難事故

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/04 13:54 UTC 版)

吾妻連峰雪山遭難事故(あづまれんぽうゆきやまそうなんじこ)とは、1994年平成6年)2月11日からの三連休を利用して吾妻連峰に出掛けた山スキーパーティー7名のうち5名が死亡した遭難事故[1]。山スキーの聖地として人気を集めてきた吾妻連峰で起きた大きな遭難事故のうちの一つに挙げられ、山岳遭難事故史上に残るものとされる[2]


注釈

  1. ^ リーダーは標柱に気付かず通り過ぎてしまったと判断したようであるが、実際には霧ノ平まで到達していなかったとされる。一行が最初に引き返した地点は1403の小ピークの手前辺りと思われ、事故報告書は、その地点を高倉山への登りと間違えた可能性があると指摘する(羽根田治 2020, p. 330)。
  2. ^ 生還者の男性は、温泉宿の従業員に「ほかのメンバー5人は霧ノ平高倉山のコルでビバークしている」と報告しているが、実際のビバーク地は白浜付近だった(羽根田治 2020, p. 344)。
  3. ^ 社会人山岳会に所属。まだビギナーの域を出ない38歳(丸山直樹 1998, p. 59)。
  4. ^ リーダーに次ぐ20年の登山歴を持っていた。
  5. ^ メンバー中で最年少。リーダーらとはたびたび登山していたスキー仲間。
  6. ^ 1970年から会社の後輩に誘われて蓮華温泉の山スキーに参加したのが契機となって登山に精通し、人柄もあって彼を慕うグループが形成されていた。
  7. ^ 当時の日本山岳ガイド連盟(現在の日本山岳ガイド協会)が認定する資格。
  8. ^ 冬季は休業しているが施設のメンテナンスのため管理者が常駐。事前に連絡を入れれば宿泊することができた(羽根田治 2020, p. 327)。
  9. ^ この「高湯~慶応吾妻山荘~家形山~白浜~霧の平~滑川温泉」ルートは登山の専門書(「東北山スキー100コース」奥田博、伊藤繁著、山と渓谷社)でも紹介されているが、福島市役所観光課発行の『吾妻連峰登山ルート図』では「夏山経路の指定」こそ受けているものの、冬山経路の指定については「藪が深くて風が強く、かつ雪崩も起きやすい」という理由で受けておらず、山岳ガイド・山岳会など、専門家の間でも意見が分かれる縦走経路となっている。
  10. ^ この時、女性Bが駅の外で強風が吹き、東京駅との気候に違いがあったと証言している。
  11. ^ なお吾妻高湯スキー場と吾妻ロッジはこの事故の後、2006年限りで営業を終了した。
  12. ^ 歩いている途中で強風が収まり4本目のリフトが動き出したため、その使用は可能になったが、そのまま上の登山口まで歩き続けた。
  13. ^ 慶応義塾大学山岳部OBで成る慶応登高会によって1970年代にオープンした山小屋。同じ管理人が通年常駐し、宿泊施設・電気・ガス・暖房設備が整っていた。
  14. ^ その名の通り、囲炉裏があるだけの緊急時(悪天候や日没時)の避難場所であり、宿泊施設ではない。特に冬は小屋の中で防寒具をしっかり身につけても寒いため、ほとんど人が立ち寄らない。
  15. ^ これはリーダーが前年吾妻連峰を登山した際、ここ(家形山避難小屋)で今回のパーティーメンバーの一部を含む仲間達と囲炉裏を囲んでのバーベキューパーティーを楽しんだ経験があり、その時は大きな問題にならなかったため、その再現をして過ごすことも企図していた。そのうえ、当初の計画より遅れていたにもかかわらず、これに異を唱えるメンバーがいないという状況もそれを促す原因となった。
  16. ^ これが睡眠不足を招いて翌日の体力消耗や判断ミスの一因となった可能性は高い。
  17. ^ 生還したAとBはNHKの取材に対し、「当日(12日)朝の段階で悪天候だった場合は引き返す予定だった」と証言している。
  18. ^ 低気圧と寒気の間の一時的な晴天のこと。別の登山者がライターでタバコに火を点けられるほど穏やかな天候だったが、この時東京は大雪だった。
  19. ^ ここから西側の谷へ降り、谷をたどって北上すれば滑川温泉へ到着する重要な目印だったが、実際にはまだ霧の平に至っていなかった。
  20. ^ 登山用スキーは上り坂でも歩きやすいようつま先部分のみを固定し、かかとが上がる方式となっており、裏面、つまり滑走面には滑り止め用シールを貼る。しかし、スキー板シール用接着剤は気温が氷点下になると接着力が弱まり、接着面に雪氷が付着すると、完全除去しないかぎりスキー板にシールが貼り付かなくなるため、スキーでの歩行ができなくなる。
  21. ^ メンバーが携行したカメラに入っていたフィルムは、「白浜に達した時点でスキー板から剥がれてしまった滑り止めシールを粘着テープで留める応急処置をする場面」が最後の写真となっており、フィルム余白を残したままそれ以降シャッターが切られた形跡はなく、メンバー全員が窮地に追い込まれていたことを物語っている。
  22. ^ 吹雪を避けて通ろうとした尾根東側の斜面は雪が深くて男性2人が1時間以上ラッセルしても進めず、白浜の尾根の上を通過する以外選択肢は残されていなかった。
  23. ^ 吹きさらしの雪は堅かったため、雪洞掘りに長時間を要し、さらに体力を消耗する結果となった。また、東側に少し下れば雪洞を掘るのに向いた斜面があったが、7人は気付かなかった。
  24. ^ パーティー7人のうち4人は一人暮らしで、残り3人も家族に詳しい登山経路を伝えていなかった。
  25. ^ 翌15日はRFCレギュラーワイド番組内で行方不明者捜索活動の模様を吾妻ロッジ・福島警察署庭塚駐在所2カ所に設けられた現地指揮本部より生中継。東京より駆け付けた行方不明者の親族および山岳会メンバーも同局の番組に生出演し、消息を絶ったパーティーへの呼びかけに加わる。これらの模様はのちに30分枠のRFC特番「緊急ラジオはこだました~吾妻連峰遭難者呼びかけ放送」としてまとめられ、(凍傷を負いながらも生還したメンバー2名へのインタビューと、遭難事故から半年後の同年7月に遺族や生還した女性Bらが行った慰霊登山の模様も交えて)同年(1994年)12月25日に放送された(1996年1月3日に再放送)。同放送では、7人がラジオを持っていたら助かったかどうかはわからない、と断定を避けている。
  26. ^ 上記の通り、同日朝の時点では意識があったものの白浜へ残ることを選択した。
  27. ^ (凍傷を負いながらも自力で滑川温泉に着いた)メンバー2名からの通報では当初、「霧の平と高倉山のコルでビバークしている」との報が指揮本部へ伝達されており(この時点では5人の生死は不明)、この時本部では「全員無事か」と歓声(喜びの声)が上がっていた。ただし当時は強風のためビバーク地点の真上へ自衛隊ヘリが思うように近づけず、発見からメンバー収容までには時間がかかった。しかし「全員ビバーク中」の報から2時間後に状況は暗転(RFC特番「緊急ラジオはこだました~吾妻連峰遭難者呼びかけ放送」より)。発見・収容されたメンバー5人は陸上自衛隊ヘリで福島駐屯地を経て福島県立医科大学附属病院へ搬送され、全員の死亡が確認された(『吾妻連峰の5人遭難死 2人懸命の下山、及ばず』、朝日新聞、1994年2月16日付一面)。
  28. ^ 吾妻連峰登山の体験をユーモラスな挿絵付きの冊子にして山仲間たちに配布したように、冬山装備の認識については十分とは言えなかった。また、避難小屋での宴会を企画するリーダーの計画を問題視する者がいなかった点も悲劇に拍車をかけた。
  29. ^ 厳密に言えば、NHKの取材においてメンバーの1人がチェックリストを作成したように、それらが無いことには気づくチャンスは存在した。だが、生還した男性Aによれば多忙によりそれらの有無の問題性を検討するまでには至らなかったと証言している。また、リーダーの計画をメンバーに伝えていたマネージャー役の女性(死亡)も登山経験が十分とはいえなかったという。
  30. ^ もともと毎回の山行において提出する習慣がなかった。そのうえリーダーの立てた計画がメンバーの力量に見合っているかチェックされることも、エスケープルートが設定されることもなかった。
  31. ^ 実際、NHKの取材において、7人が登頂している場に遭遇した別の登山客が遅れているメンバーを目撃したと証言している。
  32. ^ 生還した女性Bによれば、メンバーの一人が遅れていたメンバーに「慶応吾妻山荘」へ行くことを提案したが、遅れていたメンバーは「大丈夫だから」と言って登山を強行した。
  33. ^ これは他の登山者を気遣わずにいられること、リーダーが思い出のある家形山避難小屋にこだわったことなどを理由に通過している。もしこの時点で山荘に向かっていれば事態が変わっていたか、史実より早く遭難の発覚ないし捜索開始がされていた可能性がある。

出典

  1. ^ 羽根田治 2020, p. 323.
  2. ^ 羽根田治 2020, pp. 320–323.
  3. ^ 羽根田治 2020, pp. 327–332.
  4. ^ 羽根田治 2020, pp. 333–340.
  5. ^ 羽根田治 2020, p. 340.
  6. ^ 羽根田治 2020, p. 341.
  7. ^ 羽根田治 2020, pp. 341–342.
  8. ^ 羽根田治 2020, pp. 343–344.
  9. ^ 羽根田治 2020, pp. 344–345.
  10. ^ 羽根田治 2020, p. 344.
  11. ^ a b 羽根田治 2020, p. 345.
  12. ^ a b c d e NHKスペシャル「そして5人は帰らなかった~吾妻連峰・雪山遭難を辿る」(1994年5月8日放送)
  13. ^ 羽根田治『山岳遭難の傷痕』 P.332-333
  14. ^ 羽根田治『山岳遭難の傷痕』 P.333
  15. ^ 羽根田治『山岳遭難の傷痕』 P.339
  16. ^ a b c 丸山直樹『死者は還らず―山岳遭難の現実』
  17. ^ 羽根田治『山岳遭難の傷痕』 P.340
  18. ^ RFC特番「緊急ラジオはこだました~吾妻連峰遭難者呼びかけ放送」1994年12月25日放送
  19. ^ 羽根田治 『山岳遭難の傷痕』P.346
  20. ^ 羽根田治『山岳遭難の傷痕』 P.350


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