吉田兼亮
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吉田 兼亮(よしだ かねすけ、寛永17年(1640年) - 元禄16年2月4日(1703年3月20日))は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。通称は忠左衛門(ちゅうざえもん)。吉田之貫の子。本姓は藤原氏。家紋は丸の内花菱。変名は、田口一真、篠崎太郎兵衛。
- ^ 山崎美成『赤穂義士伝一夕話』より「吉田忠左衛門兼亮伝」
- ^ 当墓地は一般檀家敷地にあり、泉岳寺のように所謂「観光墓所」としては公開されていない(「本妙寺」・現地説明)
- ^ 『大島町史』「伊豆国大島差出帳」
- ^ 城前寺・銅物銘「赤穂城主浅野内匠頭長矩家来吉田忠左衛門兼亮躯」(躯は首のない胴体の意味)
- ^ 古河市公式ホームページ 公報「古河」No.74(2011年11月)・文化の扉
- ^ 熊本藩「堀内伝右衛門覚書」
- ^ 福本日南「元禄快挙録」
- ^ 仕方なく岡山藩で肩代わりしたと記される(『池田家文書』(岡山大学所蔵))
- ^ 「伊藤十郎太夫治行聞書覚」
- ^ 伊藤武雄・翻刻『赤穂義士寺坂雪冤録』(昭和10年、花岳寺所蔵)
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