勅任艦長昇進と西インド諸島での海戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/10 18:53 UTC 版)
「トマス・グレーブス」の記事における「勅任艦長昇進と西インド諸島での海戦」の解説
この後グレーブスは、ボストンとロードアイランドの近郊で他の補給船の指揮を執り続け、おじのサミュエルが召喚されたため、再びプレストンに乗ってイギリスへ戻った。しかし再び、ウィリアム・ホサム(英語版)が指揮を執るプレストンで北アメリカの駐留地へ送られた。1779年、グレーブスは西インド諸島及び北アメリカ駐留地のスループ艦サヴェージ(英語版)の指揮を執り、1781年5月には勅任艦長(英語版)となった。その時期はエドマンド・アフレック(英語版)准将が不在であったため、9月5日のチェサピーク湾の海戦でベッドフォードの指揮を執り、その後も引き続きアフレック准将の旗艦艦長としてベッドフォードの指揮官を務め、1782年1月26日のセイントキッツの海戦(英語版)と、4月9日と12日のセインツの海戦では功績をあげた。このセインツの戦いが、ベッドフォード指揮官として最後の戦闘となった。 その年の秋、グレーブスはフリゲート艦マジシエン(英語版)(マジシエンヌ)の指揮官となった。この艦で、1783年の1月2日にはフランスのフリゲート艦シビル(英語版)と激しい交戦を行い、この時はシビルの乗員相手に苦戦した。この乗員はチェサピーク湾へ輸送される兵員だった。2隻は難破するまで戦ったのち別れた。マジシエンは2週間後にジャマイカに到着し、シビルは1783年2月22日にトマス・マクナマラ・ラッセル(英語版)の指揮下の護衛艦ハッサーに拿捕された。
※この「勅任艦長昇進と西インド諸島での海戦」の解説は、「トマス・グレーブス」の解説の一部です。
「勅任艦長昇進と西インド諸島での海戦」を含む「トマス・グレーブス」の記事については、「トマス・グレーブス」の概要を参照ください。
- 勅任艦長昇進と西インド諸島での海戦のページへのリンク