佐藤金之助
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佐藤 金之助(さとう きんのすけ、1898年10月8日[1] – 1972年3月20日[注釈 1])は、日本の柔道家(講道館9段・大日本武徳会教士)。
注釈
- ^ 『秋田県柔道史』49頁では「2月20日」。
- ^ 後に本籍は東京都中央区霊岸島に置いた[4]。
- ^ 1958年6月に講道館より発刊された機関紙「柔道」では、“二葉学舎卒、高等柔道教員養成所中退”と紹介されている[5]。
- ^ 佐藤は後に、恩師として三船の他に柴田政太郎・大江廉之助・石橋和一の名を挙げている[4]。
- ^ 他に指定選士として選出されたのは須藤金作、栗原民雄、天野品市、牛島辰熊、古沢勘兵衛など。
- ^ 佐藤は初段時代に瀕死の病床に伏していた際、ある晩に枕元に白衣の老翁が現れて、遥か太平山の中腹にある神泉の水を飲ませて貰った夢を見てから、瞬く間に病気は快方に向かったという。佐藤はこの老翁が太平山の三吉神社の祭神であったと信じ、その一件以来、自分の一生の運命は三吉神社の守護の下にあり、人並み以上の事が自分に出来たらそれは全てこの神のお護りのお陰であると信じるようになったという[7]。
- ^ 現代の柔道試合での優勢判定は、昭和天覧試合にて大会進行上の必要性や試合態度の善導という目的で初めて導入されたのが起源である[11]。結果的に佐藤は優勢判定により涙を飲む結果となったが、“柔”の佐藤と“剛”の牛島との史上稀に見る激闘について、柔道評論家の工藤雷介は「旧審判規定なら文句無しに引き分け」と評していた[11]。
- ^ 全日本柔道連盟の公式見解では全日本東西対抗大会の第1回大会は1949年10月29日に大阪市の仮設国技館で挙行としているが、これは戦前開催分を除いてカウントしたものであり、厳密には1936年4月30日、1940年2月15日にそれぞれ第1回大会・第2回大会が開催されている。
- ^ 同時に9段を授与されたのは会田彦一、村上義臣、宮武京一、子安正男、高木喜代市、鈴木潔治、高橋喜三郎、伊藤四男、神田久太郎、浜野正平、工藤一三、宇土虎雄、兼元藤兵衛、高垣信造、緒方久人という面々であった[5]。
出典
- ^ a b c d e 『秋田柔道史』47頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l くろだたけし (1983年2月20日). “名選手ものがたり40 佐藤金之助9段 -三船門下の俊才、足払いの名手-”. 近代柔道(1981年5月号)、58-59頁 (ベースボール・マガジン社)
- ^ a b c d e f g 野間清治 (1934年11月25日). “柔道教士”. 昭和天覧試合:皇太子殿下御誕生奉祝、836頁 (大日本雄弁会講談社)
- ^ a b c d e f g h i j k l 工藤雷介 (1965年12月1日). “九段 佐藤金之助”. 柔道名鑑、8頁 (柔道名鑑刊行会)
- ^ a b “新九段十六氏紹介”. 機関誌「柔道」(1958年6月号)、40頁 (財団法人講道館). (1958年6月1日)
- ^ a b 山縣淳男 (1999年11月21日). “佐藤金之助 -さとうきんのすけ”. 柔道大事典、184頁 (アテネ書房)
- ^ a b c d e f 野間清治 (1930年5月5日). “柔道指定選士の感想”. 昭和天覧試合奥附、610-612頁 (大日本雄弁会講談社)
- ^ a b c d e f g 工藤雷介・横尾一彦 (1984年9月20日). “全国に鳴り響いた“業師”佐藤金 -佐藤金之助9段-”. ゴング(9月号増刊)、61頁 (日本スポーツ出版社)
- ^ a b c d e 工藤雷助 (1973年5月25日). “天覧試合と名勝負”. 秘録日本柔道、179-180頁 (東京スポーツ新聞社)
- ^ a b c d e f 工藤雷助 (1973年5月25日). “天覧試合と名勝負”. 秘録日本柔道、185-187頁 (東京スポーツ新聞社)
- ^ a b 工藤雷助 (1973年5月25日). “天覧試合と名勝負”. 秘録日本柔道、175頁 (東京スポーツ新聞社)
- ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』542頁。
- ^ 『秋田県柔道史』49頁。
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- 2 佐藤金之助の概要
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