伊賀氏のその後
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天正13年(1584年)2月に家久は毛利輝元から防長に新たに300石が与えられ、天正15年(1587年)、隆景が筑前名島に移封されると、それに従って同地へと渡り、間もなく痢病により没したという。家久の死後、伊賀氏には家を継ぐ男児は無かったが娘が居たため、輝元は井原元歳にこれを娶らせて家久の遺領を引き継がせたと『大日本史料』にはある。 しかし、『萩藩閥閲録』によれば没年は文禄3年(1594年)の事であり、幼少の嫡子才法師を残して死んだといい、才法師の行く末を案じた母方の祖父である明石行雄が当時の筑前名島の領主である小早川秀秋の家老である山口宗永に宛てた書状が収録されている。 伊賀陽太郎、伊賀氏広らは伊賀氏の子孫であるが、氏広は本来の伊賀氏と血縁的な関係は無い(氏広は山内氏からの養子)。
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