交渉材料としてのジェマイティヤ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/24 06:13 UTC 版)
「ジェマイティヤ蜂起」の記事における「交渉材料としてのジェマイティヤ」の解説
最初にジェマイティヤの征服を試みたのはリヴォニア帯剣騎士団だったが、1236年のザウレの戦いで壊滅的敗北を喫し、翌年ドイツ騎士団に吸収され、リヴォニア騎士団となった。ドイツ騎士団にとって、ジェマイティヤの征服はプロイセンとリヴォニアを接続するための一大戦略目標となった。1383年、リトアニア大公ヨガイラがドゥビサ条約を策定しようとした際が最初のジェマイティヤ獲得の機会だった。この条約は、ヴィータウタスとの内戦を繰り広げていたヨガイラがドイツ騎士団を味方につけるために、騎士団がドゥビサ川までのジェマイティヤを領有することを認めるというものだった。しかし同年のうちにヨガイラと騎士団の関係は悪化した。騎士団はヴィータウタス陣営に乗り換え、ヴィータウタスから2度にわたってジェマイティヤ領有を認められた。すなわち1384年のケーニヒスベルク条約と1390年のリュック条約である。しかし今度はヨガイラとヴィータウタスが和解して、先の騎士団との取り決めを破棄したため、騎士団のジェマイティヤやリトアニアとの戦いは続いた。1398年10月、ヴィータウタスは南東のジョチ・ウルスに大遠征を行うべく、サリナス条約を結んで騎士団に再びジェマイティヤ領有を認めた。しかし彼はヴォルスクラ川の戦いでタタール軍に大敗を喫し、再びドイツ騎士団方面への拡大志向を取り戻すに至った。
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