二月革命後の行動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/09 14:50 UTC 版)
「ニコライ・ユデーニチ」の記事における「二月革命後の行動」の解説
1917年の二月革命ののち、ユデーニチは臨時政府によってカフカース戦線(英語版)の司令官に任命された。しかし、それからひと月の後、1917年5月には彼は「臨時政府の指令に反抗した」廉で解任され、退役を余儀なくされた。1917年8月には、国家会議に参加しコルニーロフの蜂起を支持した。 ユデーニチの政治方針は、歴史上の領域における一体不可分のロシアの復興の理念に基づいていた。そのためには、彼は文化・民族的自治、さらには少数民族の国家的自立性さえも、それらが反ボリシェヴィキ闘争に協力するのであれば、戦術的目的においてその可能性を公認していた。 1918年11月には、フィンランドへ亡命した。同月、彼はヘルシンキにて「ロシア委員会」("Русский комитет")を設立した。この組織はロシア政府としての役割を要求した。1919年1月には、委員会はユデーニチをロシア北西部における白色運動の指導者として認め、彼に独裁的全権を委託した。フィンランド摂政カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムの合意の下、ユデーニチは軍部隊の編成に取り掛かった。その後、彼は北西部における反ボリシェヴィキ闘争の中心地であったエストニアへ移った。連合国と緊密な関係を築いたが、中でもイギリスとの関係が強まった。
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