ロシアの計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 00:03 UTC 版)
西方方面軍のアレクセイ・エーヴェルト司令官は先のナーロチ湖の戦いを指揮した将軍の一人だった。彼は守勢を保つことを主張して、ブルシーロフの攻勢計画に真っ向から反対した。1915年から陸軍は皇帝ニコライ2世の指導下に置かれており、作戦の裁可を決める立場にあった。エーヴェルトはツァーリとロマノフ家の熱心な支持者であったが、ニコライ2世は彼を退けてブルシーロフの計画を承認した。目標は前年に失ったコーヴェリとリヴォフの奪回であった。ロシア軍参謀本部もブルシーロフの攻勢案を承認したが、両隣の各軍が南西方面軍を支援することについては却下した。 西側諸国からの強い圧力でロシア軍は予定より早く実施すべく攻勢の準備を急いだ。ブルシーロフは歩兵40個師団と騎兵15個師団からなる4個軍を作戦地域に集結させた。対するのはオーストリア軍の歩兵39個師団と騎兵10個師団で、三重に防衛線を構築していた。加えてドイツ軍からの増援が見込まれていた。ロシア軍はオーストリア軍の防衛線に忍び寄って100ヤードないし75ヤード程度の距離まで近づいた。ブルシーロフは300マイル幅の正面にわたって奇襲攻撃を準備した。参謀本部は攻勢正面の幅を狭めて兵力を集中させることをうながしたが、ブルシーロフは彼の計画にこだわり、参謀本部も折れた。
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