レゲエへの傾倒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/09 10:03 UTC 版)
「ラッキー・デューベ」の記事における「レゲエへの傾倒」の解説
5枚目のムバカンガのアルバムを発表した頃、後にデューベのサウンドエンジニアとなるデイヴ・セガール (Dave Seagal) はデューベにソロ活動を始めることを勧めた。デューベはセガールの提案を受け入れ、以降のアルバムは全て"ラッキー・デューベ"のソロ名義でリリースされることとなった。さらにデューベはこの頃、コンサートでレゲエを演奏すると聴衆のうけがよいことに気がつき始めていた。本場ジャマイカのジミー・クリフやピーター・トッシュらのレゲエに影響を受けたデューベは、アパルトヘイト政策下の南アフリカで社会的・政治的なメッセージの込められたレゲエを歌い始めた。 新しいジャンルに挑戦することを決めた彼は1984年にミニアルバム『Rastas Never Die』をリリースした。しかし、彼のンパカンガ作品が平均3万枚売れていたのに対し、本作はたった4千枚しか売れなかった。これは当時反アパルトヘイト運動に敏感だった南アフリカ当局が本作を発売禁止にしたからであった。そのような困難にも関わらずデューベはライブやレコーディングでレゲエを演奏し続け、1985年には再びレゲエに取り組んだ『Think About The Children』をリリースした。この2枚目のレゲエアルバムはプラチナム・ヒットとなり、彼は南アフリカで最も有名なレゲエミュージシャンとしての地位を確立した。
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