ヨークの焼き討ち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/15 16:18 UTC 版)
4月28日から30日の間で、アメリカ軍は狼藉の限りを尽くした。ある者は植民地議会の議事堂に火を付けた。アメリカ兵はそこで剥がされた頭皮を発見したとされているが、伝説ではそれが実際には議長の鬘だったとなっている。アッパー・カナダの職杖がワシントンまで持ち去られており、それが返されたのは1934年になってフランクリン・ルーズベルト大統領の善意のジェスチャーとしてだった。公式文書や新聞の印刷に使われていた「印刷所」がいたずらされ、印刷機は破壊された。空き家を略奪した兵士も居た。これはその所有者が民兵であり、降伏条件書で要求される仮釈放をまだ与えられていないというのが口実だった。ジェイムズ・ギビンスなどインディアンと関連づけられたカナダ人の家は、その所有者の状態に関わりなく略奪された。 ディアボーンはその手紙で、いかなる建物も破壊を命令したことはないと断固として否定し、残虐行為の最たるものを遺憾に思うと述べていたが、それでも兵士達を抑えられず、また進んでそうしようともしなかった。シーフは後に、アメリカ兵が略奪し廃棄した政府が所有する農機具などの物資を地元開拓者が違法に入手したと主張し、それらを元に戻すよう要求した。
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