モデル業及びタブロイド紙の暴露
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/05 10:22 UTC 版)
「キャロライン・コッシー」の記事における「モデル業及びタブロイド紙の暴露」の解説
手術後、コッシーは危険を冒して女性としてモデルの仕事をこなし、積極的に社会生活にも関わった。彼女は過去を隠して働き、異性とも交際した。1991年にPLAYBOY誌に性生活について尋ねられた時、彼女は「私は少し自由奔放になったのではないかと心配です」と話している。彼女はデス・ライナム (Des Lynam) とのロマンスについてタブロイド紙に語っているが、ライナムは記憶に無いと主張している。コッシーは「チューラ」という名前でモデルとして働いた。彼女はオーストラリア版ヴォーグやハーパース・バザーなどの雑誌に登場し、多方面にわたりグラマーモデルを務めた。1981年にはイギリスのタブロイド新聞「ザ・サン」のページ・スリー・ガールとなり、PLAYBOY誌のグラビアも飾った。 コッシーは1978年にイギリスのクイズ番組『3-2-1』の出演を勝ち取った。間もなくタブロイド紙のジャーナリストが、彼女が性転換者であることを発見し、それを記事にするつもりであると明かしてコッシーに接触してきた。ジャーナリストは彼女の過去を調査し始め、彼女の家族にインタビューしようと試みた。コッシーはプロデューサーに契約を解除するよう説得して、番組から降りることで、これに応じた。結果的にタブロイド紙のジャーナリストはコッシーと彼女の家族に接触することをやめた。この事件の後、コッシーは注目度を減じるために小さな仕事だけを引き受けた。 1981年、コッシーはジェームズ・ボンドシリーズ映画『007 ユア・アイズ・オンリー』のエキストラに配役された。1982年の映画公開の直後、タブロイド紙のニュース・オブ・ザ・ワールドは一面の「James Bond Girl Was a Boy. (ボンドガールはかつてボーイだった。)」という見出しと共に、コッシーが性転換者であることをついに明らかにした。記事は瞬く間に広がり、コッシーは彼女自身の証言によれば、報道により自殺を考えたほど動揺していた。しかし、彼女は結局モデルの仕事を続ける事ができた。この騒動に応えてコッシーは1982年に初の自伝「I Am a Woman」を発表した。
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