モズガヴォンの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/16 22:54 UTC 版)
「ミェシュコ1世プロントノギ」の記事における「モズガヴォンの戦い」の解説
1195年、ミェシュコ1世と甥ヤロスワフは、ミェシュコ3世のクラクフ公国及び長子権を回復しようとする試みを支援し始めた。カジミェシュ2世が未成年の息子達を残して死ぬと、マウォポルスカを奪取する機会も生じた。しかし、宮中伯ミコワイに率いられた都市クラクフとサンドミェシュの貴族達は、カジミェシュ2世の長男レシェク1世(白公)を新しい大公として迎えようと考えていた。 別々の君主を推す2つ勢力は1195年9月13日、イェンジェユフ近郊で起きたモズガヴォンの戦いで激突し、この戦いでミェシュコ3世は深手を負い、息子のボレスワフを失った。ミェシュコ1世とヤロスワフに率いられたシロンスクの軍隊は戦場に大幅に遅れて到着し、直後にミェシュコ3世はカリシュに撤退した。レシェク1世支持派の軍勢には宮中伯ゴヴォレクが味方していたが、シロンスクの軍勢は敵軍に対して大勝利を収めた。しかし肝心のミェシュコ3世が戦場にいなかったため、この勝利はシロンスクの公達の権威を高めるだけに終わった(但し、かなりのシロンスク軍兵がサンドミェシュの貴族達の捕虜になった)。
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