マルドニオスの侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 04:55 UTC 版)
詳細は「en:First Persian invasion of Greece」を参照 紀元前492年、ダレイオス1世は、イオニア反乱軍に荷担したアテナイとエレトリアに対する報復と称して、マルドニオス率いる部隊をギリシアに派遣した。報復というのは口実であり、ギリシア全域の制圧を目論んでいたとされる。歴史家によっては、この時の遠征軍が小規模であった可能性を示し、目的は征服ではなく、威力偵察に過ぎなかったとする。 ペルシア艦隊はエーゲ海北部の海岸線に沿って進み、タソス島を制圧したが、ハルキディキ半島のアトス山のある岬を迂回する途中、暴風に遭遇して大損害を被った。また陸隊も、マケドニアでブリュゴイ族の夜襲を受け、マルドニオス自身が手傷を負ったため、遠征軍は撤退した。 紀元前491年、ダレイオス1世はギリシアの各ポリスに服従を求め、エーゲ海島嶼部のポリスはほとんどが要求を受け入れた。しかし、当時のアテナイは親ペルシア派と反ペルシア派の反目によって動揺していた上に、かねてから険悪な関係となっていたアイギナがペルシアに服従する意志を示したことを知って、アイギナと紛争状態になった。スパルタも、アテナイに同調する立場をとるクレオメネス1世とそれに反目するデマラトスの2人の王の内紛によって、対応は混乱していた。
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