マディラ諸島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 00:03 UTC 版)
カピタニア制が導入されたのはエンリケ航海王子によるマデイラ諸島の開拓だった。 彼および彼の後継者(歴代のヴィゼウ公)は、マディラを「寄贈された者」としてドナタリオ(英語版)と呼ばれ、与えられた土地はドナタリア(英語版)とも呼ばれた。彼らは名目上の領主になったが、王室に連なる者としての義務と職務を果たすために本土に留まり、大西洋を渡ることはなかった。領土を与えた国王としても、ドナタリオを実際に現地に送ることは考えてなかった。 ドナタリオは実際に現地を管理するため、さらにカピタン・ド・ドナータリオ( capitães do donatário )という代理人を任命して権限を委譲した。マデイラ諸島は以下の3つのカピタニアに分割され、それぞれ島の探険に貢献した航海者がカピタンに任じられた。 フンシャルを含むマデイラ島の半分はジョアン・ゴンサルヴェス・ザルコに。 マヒコ(英語版)を含むマデイラ島の残り半分はトリスタン・ヴァス・テイシェイラに。 ポルト・サント島はバルトロメウ・ペレストレロ(英語版)に。 カピタニア制はマデイラで用いられたのち、それにつづいて開拓されたアゾレス諸島、さらに他の島々やアフリカ沿岸部の拠点でも施行された。 ポルトガルの海外領土の拡大により、この制度はさらにポルトガル領インドや新大陸(ブラジル)を含む他の領土にも拡大された。
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