ポンメルンにおけるシルの義勇部隊(1806年-1807年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/18 14:03 UTC 版)
「フェルディナント・フォン・シル」の記事における「ポンメルンにおけるシルの義勇部隊(1806年-1807年)」の解説
1806年、シルは出征し、アウエルシュタットの戦いにおいて頭部をサーベルで斬り付けられ重傷を負う。そしてマクデブルクとシュテッティンを経由してコルベルク (Kołobrzeg) に逃れ、指揮官のルカドゥー (de:Ludwig Moritz von Lucadou) 大佐の許に健康な状態で出頭した。大佐はシルに、少数の兵による周辺の巡察を許可する。その目的は防衛に使用する資材、新兵や資金の要塞への搬入および偵察であった。しかしシルは、ポンメルンでフランスの占領軍に対する遊撃戦を開始する。 そして1806年12月7日、ギュルツォウ (Gülzow) への襲撃を成功させ、同月中にもプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世によって中尉に任じられ、プール・ル・メリット勲章を授かっている。彼は原隊を追って東プロイセンに戻るよう求める、連隊長の要求を無視した。シルは急速に著名となり、その部隊も速やかに拡大していった。 国王は1807年1月12日の内閣令 (de:Kabinettsorder) によって、シルに独自の手段を用い敗残兵や身代金 (de:Ranzion) で解放された兵から義勇部隊を募ることを認めた。住民の支援を受けつつ、同義勇部隊の小規模な作戦は多くの場合成功を収めたが、大規模な行動は失敗する。1807年2月15日に試みたシュタルガルトへの襲撃は損害を受けて退けられた。また騎兵大尉 (Rittmeister) に昇進した後、防備を固めたノイガルト (Nowogard) の官庁を果敢に襲撃したものの、成功もなく押し戻されている。早くもこれらの活動において、シルの破滅的な過信は表れていた。彼は負傷してコルベルクに帰還しなくてはならなかったが、そこでは国王が明確には規定していなかった指揮系統を原因として指揮官、ルカドゥー大佐との対立が悪化していた。 3月中旬、シルはスウェーデンとの連携について協議するためシュトラールズントに、そして4月中旬、同じ任務を帯びてストックホルムに赴いた。5月12日、彼は騎兵とともにフォアポンメルン (Vorpommern) へ移動し、ブリュッヒャーと合流した一方で歩兵は防衛のため、マイクーレに残った。1807年6月14日のフリートラントの戦いの後、プロイセンがティルズィットの和約を強いられると、シルとその部隊は戦闘に参加することもなく、ブリュッヒャーとともにカミン (Kamień Pomorski) とケスリンの間にある境界区域へ撤収しなくてはいけなかった。その軍団は訓練態勢に移された。 功績に報い、1807年6月30日にプロイセン国王から少佐に任じられると、シルは指揮下の騎兵から編成された「ブランデンブルク第2フザール連隊(フォン・シル連隊)」の連隊長に就任した。彼の歩兵は、国王によって「シル軽歩兵大隊」として新しい「近衛歩兵連隊」に組み入れられている。1808年12月10日、シルはフランスの占領軍の撤収後に勝者として帰還する部隊の先頭に立ち、指揮下のフザール連隊とともにベルリンに入城した。
※この「ポンメルンにおけるシルの義勇部隊(1806年-1807年)」の解説は、「フェルディナント・フォン・シル」の解説の一部です。
「ポンメルンにおけるシルの義勇部隊(1806年-1807年)」を含む「フェルディナント・フォン・シル」の記事については、「フェルディナント・フォン・シル」の概要を参照ください。
- ポンメルンにおけるシルの義勇部隊のページへのリンク