ボディ・アラク・ハーン
ボディ・アラク・ハーン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/09 06:21 UTC 版)
ダヤン・ハーンが亡くなると、長男のトロ・ボラトがすでに亡くなっていたため、その長男であるボディが後継者に指名されていたが、まだ21歳と若かったため、ダヤン・ハーンの三男でボディの叔父であるバルス・ボラト晋王が右翼三トゥメンを背景に即位し、サイン・アラク・ハーンと称した。しかし、ボディは左翼三トゥメンの勢力を結集し、叔父に迫って退位させ、ボディ・アラク・ハーンとして即位した。1542年、オルドス・トゥメンのグン・ビリク・メルゲン晋王が亡くなると、ボディ・アラク・ハーンはその弟であるトゥメト・トゥメンのアルタンに、「トシェート・セチェン・ハーン」(補佐ハーン)の称号を授け、右翼の新しい指導者と認め、モンゴルで2番目のハーンという位置づけをした。
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