ホイッグ政権の枢密院議長
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「ヘンリー・ペティ=フィッツモーリス (第3代ランズダウン侯爵)」の記事における「ホイッグ政権の枢密院議長」の解説
ジョージ4世は後任としてナポレオン戦争の英雄ウェリントン公爵に組閣の大命を下したが、ウェリントン公爵はカトリック解放に反対だったため、ランズダウン侯爵は協力を拒否して自派閥とともに下野した。 その後はホイッグ党内の他派閥との連携を深めていき、トーリー党政権の打倒を目指した。野党の結束は進み、1830年11月にはウェリントン公爵内閣を倒閣してグレイ伯爵を首相とするホイッグ党政権を誕生させることに成功した。ランズダウン侯爵はこの内閣と続く第一次メルバーン子爵内閣に枢密院議長として入閣した。 首相グレイ伯爵がホイッグ党内の対トーリー強硬派だったのに対してランズダウン侯爵はトーリー党寄りの右派だったが、一度トーリーと連立した「前科」から遠慮がちで、グレイ伯爵に対して強い態度を取れなかったという。その結果、グレイ伯爵は第一次選挙法改正をはじめとする多くの改革を成し遂げることができたが、ランズダウン侯爵らも徐々に警戒感を強めていき、ホイッグ党内の党内対立は激化していった。結局1834年7月にグレイ伯爵は辞職することになった。続く第一次メルバーン子爵内閣でもランズダウン侯爵は枢密院議長として残留しているが、同内閣は国王ウィリアム4世と対立を深めて11月には総辞職した。 その後、短期間の保守党(トーリー党が改称)政権を挟んで、1835年4月に第二次メルバーン子爵内閣が発足。ランズダウン侯爵は再び枢密院議長として入閣し、政権が崩壊する1841年まで務めた。
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