ペードロ・アルヴァレス・カブラルとは? わかりやすく解説

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ペドロ・アルヴァレス・カブラル

(ペードロ・アルヴァレス・カブラル から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/23 10:17 UTC 版)

ペドロ・アルヴァレス・カブラル[注釈 1] (ヨーロッパ・ポルトガル語発音: [ˈpeðɾu ˈaɫvɐr(ɨ)ʃ kɐˈβɾaɫ]ブラジルポルトガル語発音: [ˈpedɾu ˈawvaɾis kaˈbɾaw]Pedro Álvares de Gouveiaとも、1467年か1468年–1520年)は、ポルトガル王国貴族、軍人であり、探検航海者ブラジルを「発見」したヨーロッパ人として知られる。前半生については不明な点が多いが、下級貴族の出身であり、比較的高度な教育を受けていたとされる。1500年、カブラルは南アメリカ大陸北東沿岸域における初の本格的探検遠征を指揮し、その成果をポルトガルに報告した。先行するヴァスコ・ダ・ガマの探検航海において南大西洋の西側に陸地が存在するであろうことについては既に判明していた(1497年)が、カブラルはヨーロッパ人として初めて4大陸(ヨーロッパ大陸アフリカ大陸アメリカ大陸アジア大陸)を踏破した探検家となった[1]


  1. ^ 生前の史料においてカブラルの名の綴りは"Pedro Álveres Cabral"、"Pero Álvares Cabral"、"Pedr'Álváres Cabral"、"Pedrálvares Cabral"、"Pedraluarez Cabral"など多数のぶれがある。本記事では最も多くみられる綴りに基づいた表記を採用する。詳細についてはMcClymont 1914, p. 1、Tomlinson 1970, p. 22、Calmon 1981, p. 44、Capistrano de Abreu 1976, p. 25、Greenlee 1995, p. 190を参照されたい。
  2. ^ ポルトガル海上帝国の淵源は、1385年のジョアン1世即位と、続いて行われた北アフリカ制圧戦争やエンリケ航海王子による探検航海にまで遡る。しかし海上帝国として確固たる地位を得るには、ブラジルの領有宣言およびインドとの交易路確立を要した。詳細はDiffie & Winius 1977, pp. 39, 46, 93, 113, 191を参照されたい。
  3. ^ 「インドへの遠征航海指揮官に任じられた際に使われている名は、Pedralvares de Gouveiaである。」 —William Brooks Greenlee、Greenlee 1995, p. xlより。
  4. ^ 「一家の言い伝えでは、Cabraesはマケドニアの初代王にしてヘーラクレースの7世孫カラノスの末裔である。デルポイの神託はカラノスに対し、山羊たちが導く場所に新たな王国の都となるべき街があると伝えた。彼がエデッサへと進攻してアドリアノープルを奪取しようとした折、麾下の兵たちが山羊の群れを追って進んだところ、牛を移送中のブルガリア人たちに遭遇した。王は山羊の群れから2匹を選び出したが、この2匹こそがカブラル家紋章のフィールド上にて前足を上げ歩んでいる山羊であるという。なおヘロドトスはカラノスと山羊との関連について何も伝え記していない。」—James McClymont、McClymont 1914, p. 1より。
  5. ^ 「とあるフィダルゴは一隊を率いベルモンテのを守備していたが、侵略者により兵糧攻めにされた。砦内には2匹の山羊が残るのみであった。指揮官はこの山羊を屠殺して四分し、敵に向けて投じさせた。敵の指揮官はこれを見て、家畜を投げ捨ててみせる程であれば守備隊の物資は十全なのだろうと判断し、持久戦を打ち切り包囲攻撃を開始した。カスティーリャ人の男はこの時に捕縛され奴隷にされたといい、紋章に描かれた山羊の角と髭は、この顛末を追悼する意図で黒く塗られている。」 —James McClymont、McClymont 1914, pp. 1–2より。
  6. ^ 「このザモリンはカブラルに依頼をした。ちょうどコーチンより来て当地を通過中の商船があり、7頭のゾウを乗せているというのである。友誼の証として、カブラルは部下たちに対し、この船を拿捕してザモリンが求めるゾウを入手するよう命じた。カブラルとしてはコーチンの王に攻撃される事態は避けたいと考えていたものの、ザモリンに対し下手な真似も出来なかったのである。彼は貴族2名に兵60名とナウ船1隻を預け、コーチン商人の船からゾウを奪うよう指示した。ペドロ・デ・アタイデ英語版指揮するこのポルトガル船には300名の甲板員が乗っており、件の商船とは比較にならない強さだと思われた。アタイデはカンヌール近海でこのインド商船に接近した。商船側は弓矢と砲とでポルトガル船を攻撃し始め、ポルトガル側も直ちに火器をもって応戦した。アタイデは商船を拿捕すると、ザモリンの要望通りに積荷のゾウを移送した。この一件でポルトガル勢力の武名が広まった。(中略)一方で、アタイデはカンヌール近海にいたムスリム勢力の船4隻といくつかのparausの破壊を指揮していた。またそれとは別に、5隻の船がアタイデによって敗走させられている。ポルトガル艦隊の武名は日増しに高まっていき、ザモリンはポルトガル勢力がカリカット王国を滅ぼすのではないかという恐怖心を持つようになっていった。(中略)その結果、ザモリンはムスリム勢力に対してカリカットのポルトガル商館襲撃の許可を与え、アイレス・コレア他5人のポルトガル人が殺された。」—K. K. N. Kurup、Kurup 1997, p. 10より。
  7. ^ 史料によって死傷者の数は20-70名と開きがある。詳細はGreenlee 1995, p. xxiiiを参照されたい。
  8. ^ 予定航路を大きく外れて東へ流された結果、ディオゴはマダガスカル島に至った初のヨーロッパ人となった。彼は当地の先住民たちと友誼を結んだ後、アフリカ沿岸へ向けて引き返した。その後ディオゴは本隊を探そうとしたが、誤ってグアルダフィ岬を通過し、過去にポルトガル船が航行したことのないアデン湾に進入してしまったためにこれを果たさなかった。風向きが逆風であったため、ディオゴは暴風雨や海賊の襲撃と散々な目に遭いながら数ヶ月も当地で風待ちをする羽目になった。更にエリトリアの沿岸で船が座礁し、次々と船員が死にゆく中で必死に水と食料を探す事態に陥った。ディオゴは日ごとに減っていく乗員をどうにかまとめてやりくりし、アフリカ東岸へ向けて南行する困難な航海を成し遂げ、ついに喜望峰を通ってアフリカ北西部まで戻ってきた。そこでようやく、1年以上も分断されていたカブラル本隊との再会を果たしたのである。詳細はGreenlee 1995, pp. xxi, xxix、Bueno 1998, pp. 118, 120、McClymont 1914, pp. 23–24を参照されたい。





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