フェダイの指導者へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 05:32 UTC 版)
「アンドラニク・オザニアン」の記事における「フェダイの指導者へ」の解説
1897年、アンドラニクはロシア帝国内カフカースの中心都市であると同時に、アルメニア人の活動の中心地であり、ダシュナク党の本部も置かれていたチフリスに赴き、その地でフェダイに対する「広範な権限の委託と大幅な武力の供給」を得て西アルメニア(英語版)へ戻った。この時、ロシアのアルメニア人数十人もアンドラニクに付き従ってムシュとサスーンに入っている。 当時の両地はフェダイのアグピュル・セロブ (en) の指揮下で半独立状態にあった。セロブは1899年にクルド人の族長によって殺害されたが、この族長は数か月後にサスーンのタルヴォリク村 (en) で司祭、2人の若い男と25人の女子供のアルメニア人を殺した。アンドラニクは「好戦的なアルメニア人の半独立農民」が住むムシュとサスーンの38の村々でセロプの後任としてゲリラの指導者となり、この族長の暗殺を計画した。そして、族長を拉致し斬首することに成功したアンドラニクは、フェダイの間で揺るぎない名声を確立することとなった。
※この「フェダイの指導者へ」の解説は、「アンドラニク・オザニアン」の解説の一部です。
「フェダイの指導者へ」を含む「アンドラニク・オザニアン」の記事については、「アンドラニク・オザニアン」の概要を参照ください。
- フェダイの指導者へのページへのリンク