ハンガリー動乱後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 00:12 UTC 版)
「ブダペスト・ホンヴェードFC」の記事における「ハンガリー動乱後」の解説
1956年に、ハンガリー王者としてUEFAチャンピオンズカップに出場。1回戦、敵地でのアスレティック・ビルバオとの第1戦を2-3で落とし帰国の途に付く矢先にハンガリー動乱が発生した。このハンガリーの民主化運動に端を発しワルシャワ条約機構軍が介入する非常事態に対して選手達は帰国を拒否、第2戦は中立地のベルギー・ブリュッセルで執り行った(試合は3-3、トータルスコア5-6で敗退)。 その後も、選手達はハンガリーへは帰国せず資金調達の為に欧州各地で親善試合を行った。特にスペインでのマドリードXIとの対戦(5-5の引分け)とFCバルセロナとの対戦(4-3の勝利)は、最も顕著な試合の一つであった。しかし国際サッカー連盟はこれを違法とし、「ホンヴェード」の名称を使用する事を禁止した。 これにより決断を迫られた選手達の中でプスカシュはレアル・マドリードと、チボルとコチシュはFCバルセロナと契約したがそれ以外の選手達はハンガリーへ帰国する事になった。プスカシュらの離脱はホンヴェードを弱体化させ、翌1957年は降格を免れる事で精一杯であった。その後、1980年に25年ぶりのハンガリーリーグを制覇。データーリ・ラヨシュを擁して1980年代から1990年代に掛けてリーグタイトルを8度獲得する等、再び栄光の時代を取り戻した。
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