ハンガリーでの幽閉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:35 UTC 版)
「ヴラド・ツェペシュ」の記事における「ハンガリーでの幽閉」の解説
ポーランドとハンガリーは、東方のカトリック大国として十字軍を送るべしという有形無形の重圧を、西欧諸国やローマ教会から受けていた。しかし、両国共に内部に反乱分子を抱えて不安定な情勢にあり、またヴァルナ十字軍を始めとする対オスマン帝国戦争のたび重なる失敗もあり、十字軍を回避しようと画策していた。その一方で、正教国家とはいえワラキア、モルダヴィア、アルバニアなどの小国がオスマン帝国に善戦している状態で手を引くわけにはいかなかった。 このためハンガリー王マーチャーシュ1世は、1462年にヴラドをオスマン帝国に協力していたという罪で捕らえ、幽閉した。この突拍子もない罪状を世間に受け入れさせるため、マーチャーシュはヴラドの様々な悪行を誇張・捏造して書かせ、パンフレットにして各国に配布した。曰く、「ヴラドは人を無差別に殺し血肉を食らって晩餐を開いた」「ヴラドは田畑を燃やして農民を飢えさせた」。これには発明されたばかりの印刷技術が用いられた。 しかし、対トルコ戦の英雄であるヴラドの幽閉は、諸外国への配慮もあってやがて緩やかになり、一等の城を与えられ、監視付きではあったが出歩くことも許された。マーチャーシュと共に宴会に出席したこともあった。また、この幽閉中にマーチャーシュの妹と結婚した。
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