ヌルガン
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ヌルガン(中国語: 奴児干/núérgàn,モンゴル語:ᠨᠤᠷᠭᠡᠯ/nurgel,女真語: Nurgan[要出典])とは、黒竜江下流にあった当時の地名で、現在のハバロフスク地方ティル村に比定される。元代には東征元帥府、明代には奴児干都司がそれぞれこの地に設置され、黒竜江下流域一帯の冊封体制や羈縻政策の管轄を担った。
- ^ 中村2008,46
- ^ 塚瀬進 2014, p. 59-65.
- ^ (塚瀬進 2014, p. 60) 元出典:徳永洋介 1996、301-306頁
- ^ 中村2008,47-48
- ^ 『高麗史』巻30忠烈王13年(1287年)の条には「東真の骨鬼国」の将軍が高麗に訪れたことが記録されている。東真とは蒲鮮万奴が建国した金朝の後継国家の一つで、この史料のみでは「骨鬼国」が金朝の勢力下があったかどうかは正確には分からない。しかし、東真はモンゴル帝国の脅威に晒される弱小国でこの時期に新たにオホーツク海方面に進出する余力があるとは考えがたいことから、金朝の影響が既に「骨鬼国」に達しており、それを東真が継承した結果「東真の骨鬼国」という表現が成されたのではないかと考えられている(中村2008,43-45頁)
- ^ 中村2008,44-45
- ^ 和田1955,339-341頁
- ^ 『明太宗実録』永楽七年閏四月七日(己酉)「設奴児干都指揮使司。初頭目忽剌冬奴等来朝、已立衛。至是、復奏其地衝要、宜立元帥府。故置都司、以東寧衛指揮康旺為都指揮同知、千戸王肇舟等為都指揮僉事、統属其衆。歳貢海青等物、仍設狗站遞送」
- ^ 同年には丘福率いるモンゴル遠征軍も組織されており、モンゴリアとマンチュリアへの遠征は連動するものであったと考えられている。なお、丘福の遠征軍はモンゴル軍に大敗してしまったため、これを切っ掛けとして永楽帝によるモンゴリア親征が始まった。
- ^ 現ティル村にある永寧寺址は、アレクサンドル・アルテーミエフによって発掘調査が行われ、その報告書の邦訳版も刊行されている(A.R.アルテーミエフ著・垣内あと訳『ヌルガン永寧寺遺跡と碑文:15世紀の北東アジアとアイヌ民族』北海道大学出版会,2008年)。また、間宮林蔵は樺太探検の際、文化6年7月26日(西暦 1809年9月5日)に海上より当時はまだ存在していた永寧寺塔をみている。
- ^ Russia express旅行記:ティル村の重建永寧寺跡を訪ねる旅
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