ドイツ経済の隘路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/20 03:54 UTC 版)
「ナチス・ドイツの経済」も参照 ナチ党の権力掌握以降、ヒトラー政権下では軍備の拡張政策が次々に推し進められていた。しかしあまりに急速な軍需産業の拡大は、他の経済分野や陸海空軍間での軋轢を生み出した。当時ドイツでは、一経済圏内で経済を完結させるアウタルキー政策(閉鎖経済)の傾向が強まっていた。さらに軍需方面への生産拡大は、必然的に輸出産業となる分野への労働力や資源の割り当てを減少させることとなり、外貨不足が一層悪化しつつあった。また1935年と1936年の不作による食料品輸入の増大がこれに拍車をかけた。 1937年4月2日、経済相ヒャルマル・シャハトは軍備拡張政策が輸出の停滞を招き、その結果の外貨不足が農産物などの輸入をも困難にすると警告している。こうした経済危機を打開する方策として、軍備拡張政策を緩和し、国民生活を切り詰めて輸出産業を拡張し、貿易を円滑化するために対外協調政策を推進する案と、戦争を起こして敗者から収奪する案という2つの選択肢が存在していた。
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