ザクセンの自立
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「ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「ザクセンの自立」の解説
ヴォルムス協約によって、叙任権闘争は一応の終結へと至った。しかし、この取り決めは皇帝の地位低下をもたらすのみであった。ザクセン公の自立は一層進み、帝国内の混乱は収拾されなかった。 こうした中、1123年にアイレンブルク伯兼マイセン辺境伯ハインリヒ2世が子供の無いまま薨去した。ハインリヒ5世は家臣のグロイチュ伯ヴィプレヒト2世をマイセン辺境伯に任命したが、ハインリヒ2世の従叔父のコンラートが反発、ザクセン公ロタールと同盟を組んでヴィプレヒト2世を追放した。しかも、ロタールは勝手にコンラートにマイセン辺境伯領を与え、バレンシュテット伯アルブレヒト熊公にもラウジッツを与えた。ハインリヒ5世はこの決定に対処できないまま1125年5月23日、ユトレヒトで癌のため崩御した。39歳であった。シュパイアー大聖堂に葬られた。 1114年に結婚したマティルダ・オブ・イングランドとの間に嫡子がいなかったため、これをもってザーリアー朝は断絶することになる。次のローマ王選挙は甥で姉アグネスとシュヴァーベン大公フリードリヒ1世の子フリードリヒ2世が立候補したが、諸侯はもう1人の候補者ロタール・フォン・ズップリンブルクをローマ王に選出した。
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