サウジアラビア時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 20:38 UTC 版)
地図 1908年の青年トルコ人革命後、メッカのシャリーフに任命されたハーシム家のフサイン・イブン・アリーは半独立の姿勢をとるようになり、1916年には独立してヒジャーズ王国を建国したものの、ナジュドのスルタンであるサウード家のイブン・サウードに敗れてメッカは占領され、ヒジャーズ王国はナジュドに併合されてナジュド及びヒジャーズ王国の一部とされ、1931年にはこれを改称したサウジアラビア王国の一部となった。石油の富を得た1940年代以降、聖地の守護者としてサウジアラビア政府はメッカの整備を続け、都市機能は整備され町は拡大を続けた。 1979年11月20日、マフディー(救世主)を頂く武装グループがマスジド・ハラームを占拠。サウジ当局により2週間後に鎮圧されたが、鎮圧部隊側の死者は127人、武装勢力側の死者は177人という惨事となり、首謀者らは公開斬首刑に処せられた。(アル=ハラム・モスク占拠事件) 2012年、7棟の超高層建築物群からなるアブラージュ・アル・ベイト・タワーズが開業した。ホテル棟はサウジアラビアでは最も高い建築物であり、尖塔を含めた高さは601mである。
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