ウラジーミル1世の家庭生活と子どもたち
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/19 06:02 UTC 版)
キエフ公国の大公ウラジーミル1世(958年頃-1015年)は洗礼を受けるまで、メルゼブルクの主教であるティトマー(Thietmar)により「大いなる極道者」(ラテン語:fornicator maximus)と呼ばれた。ウラジーミルはキエフの宮廷や、ベルゴロド、ヴィーシュホロド、ベレストヴォ(現在はキエフ市内にあたる)などの各地の別邸に数百人の妾をおいていた[1]。またポロツクのログネダを初めとする複数の異教徒の妻がいた。『ルーシ原初年代記』はウラジーミルに12人の息子[注 1]がいたとし、ウラジーミルの妻たちについても、その子供とともに記録している。しかし、どの子供がどの妻から生まれたかについて、年代記の報告は一致していない。したがって、以下の記述は、多分に推測に基づいたものとならざるをえない。
注釈
- ^ 12は聖数とされる数であり、スタニスラフという生没年や事跡の不明な子については、子の数を12とするための意図的な操作の可能性がある、という指摘がある[2]。
- ^ ログネダがイングリングの王族の出であるかどうかについての議論についてはこちらを参照(2007年9月30日時点のアーカイブ)。
- ^ 「ポルフィロゲネタ」は皇帝の嫡出子を指す。詳しくはコンスタンティノス7世ポルフュロゲネトスの項を参照。
- ^ 男子が生まれた場合、バシレイオスは生涯独身で弟のコンスタンティノス8世には娘しかいなかったため、場合によってはキエフ・ルーシに東ローマ皇帝の継承を主張出来る可能性を与えることになる。
- ^ 『ノヴゴロド第四年代記』などに名が見られる。生没年や事跡は不明である[2]。
- ^ 『原初年代記』によれば、死亡したのは1063年のことである[6]。
出典
- 1 ウラジーミル1世の家庭生活と子どもたちとは
- 2 ウラジーミル1世の家庭生活と子どもたちの概要
- 3 ボヘミア出身の妻
- 4 その他の子
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