アフガン勢力ドゥッラーニー朝の台頭
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「第三次パーニーパットの戦い」の記事における「アフガン勢力ドゥッラーニー朝の台頭」の解説
アフガニスタンはムガル帝国やサファヴィー朝によって長年支配されていたが、サファヴィー朝から王位を簒奪してアフシャール朝を創始したナーディル・シャーにより、1730年代末までに統一された。1739年にナーディル・シャーはデリーを占領し、略奪と破壊を行い、インダス川以西の領土をムガル帝国から割譲させた。 1747年、ナーディル・シャーはホラーサーンで部下に暗殺され、その陣中にいたアフマド・ハーン・アブダーリーは軍から離脱し、アフガニスタンへと戻った。ヘラートを経由してカンダハールへ戻る途中、主要な将軍らにアフガン人による王朝の樹立を説得された。 アフマド・ハーン・アブダーリーはカンダハールに帰還したのち、彼らの推戴を受けてアフガン王として即位し、氏族名をアブダーリーからドゥッラーニーへと改め、アフマド・シャー・ドウッラーニーを名乗った。こうして、アフガニスタンにアフガン人による独立王朝ドゥッラーニー朝が成立した。 アフマド・シャーは国内の反抗勢力を制圧したのち、カーブルやペシャーワルを占領したのみならず、パンジャーブのラホールまで占領したが、1748年3月にマヌープルの戦いで敗れたために撤退した。その後はしばらく、アフシャール朝の支配するホラーサーン地方の遠征に専念して、ホラーサーンの主要都市を占領し、ホラーサーンとパンジャーブにまたがる帝国を樹立した。
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