ふたりの王女、ナイティエトとナイカンワーとは? わかりやすく解説

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ふたりの王女、ナイティエトとナイカンワー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 06:51 UTC 版)

チャンパ王国」の記事における「ふたりの王女、ナイティエトとナイカンワー」の解説

『勦平順省蠻匪方略』および『大南寔録正編第二紀によれば、羅奔王の乱(1834-1835)鎮圧の際において、交易農場経営などで山地民と関係の深かったチャンパ王家のふたりの王女、ナイティエト(氏節)とナイカンワー(氏巾媧)の姉妹による投降の呼びかけ大きく奏功し、明命帝信頼厚遇得たチャム居住地のうち、パリク道(ファンリ道、いまバクビン県)には禾多土県(のち潘里土府、潘里チャム郡)がつくられチャンパ王家の後継者(ナイティエトとナイカンワーの女系子孫およびその男配偶者たち)が土官(県知事府知事郡長)を務めた著名な土官として1900-1910年ごろ知事ハク・ヴィン(黒栄)、1945-1954年ごろ副知事ズン・ガイク(用磚、ベトナム共産党貢献し子弟党員が多い)がいる。フエ占城国王廟(今の名は蛮夫人廟)はハク[黒]家が祭祀者務め、ファンリの占城国王廟(今の名はポークロンムフナイ廟)はチャンパ王家(ローグエン[盧阮]家)の女系直系子孫祭祀者務める。

※この「ふたりの王女、ナイティエトとナイカンワー」の解説は、「チャンパ王国」の解説の一部です。
「ふたりの王女、ナイティエトとナイカンワー」を含む「チャンパ王国」の記事については、「チャンパ王国」の概要を参照ください。

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