ふたりの王女、ナイティエトとナイカンワー
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「チャンパ王国」の記事における「ふたりの王女、ナイティエトとナイカンワー」の解説
『勦平順省蠻匪方略』および『大南寔録正編第二紀』によれば、羅奔王の乱(1834-1835)鎮圧の際において、交易や農場経営などで山地民と関係の深かったチャンパ王家のふたりの王女、ナイティエト(氏節)とナイカンワー(氏巾媧)の姉妹による投降の呼びかけが大きく奏功し、明命帝の信頼と厚遇を得た。チャム居住地のうち、パリク道(ファンリ道、いまバクビン県)には禾多土県(のち潘里土府、潘里チャム郡)がつくられ、チャンパ王家の後継者(ナイティエトとナイカンワーの女系子孫およびその男性配偶者たち)が土官(県知事、府知事、郡長)を務めた。著名な土官として1900-1910年ごろの知事ハク・ヴィン(黒栄)、1945-1954年ごろの副知事ズン・ガイク(用磚、ベトナム共産党に貢献し、子弟に党員が多い)がいる。フエの占城国王廟(今の名は蛮夫人廟)はハク[黒]家が祭祀者を務め、ファンリの占城国王廟(今の名はポークロンムフナイ廟)はチャンパ王家(ローグエン[盧阮]家)の女系直系子孫が祭祀者を務める。
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