菅生 (村田町) 民俗文化と信仰

菅生 (村田町)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/28 16:45 UTC 版)

民俗文化と信仰

山の神と村人 江戸時代から柴田郡とその周辺地域では山岳信仰が盛んであり、当地区に於いても「うちの山の神が...」と、山の神が妻の代名詞になっているほど村民の生活で重要な位置を占めていた[5]。一言で山岳信仰とはいってもその精進には各地域特色がある。 おしょうじん(ケイヤク) 山岳信仰が盛んな村の各地区では山の神講が開かれていた。この山の神講と称した女の講を「おしょうじん」と呼んだ[5]。江戸時代から行われていると言われ開催日は集落により異なる[16]。一例として菅生上区でも高寺山観音堂には山の神が併せ奉られており、山の神講が開かれていた。その内容は下記の通りである。

  • 班ごとに各家々の嫁たちが、15,6人ずつ毎年春(2月12日)と秋(10月12日)にその年の当番になった家(ヤド)に集まる[5]
  • 朝7時ごろ、講員は宿に集まって人数分餅を手でちぎり配り会食をする。そのとき宿では、床の間に山の神の掛け軸を掲げ礼拝する。宿では終日風呂を炊いてもてなす。その間、婦人会の会合に出席し婦人同志の相談ごとをまとめたりしており、この講は夜10時ごろまで行われる。会費は一人あたり、もち米1升に金百円であった。もし費用が不足することがあっても、それは宿前の負担とした[5]
  • 婦人会も兼ねて行われていたこともあり、1946年ごろから脱穀の時期で忙しい秋の総会に家に集まるのをやめ、温泉などに慰安旅行へ行くようになった[5][16]
  • 山の神講に関する石碑もあり、菅生沢戸薬師堂境内には「発起人 鈴木おふつ 八巻おきな」と記された石碑がある[5]

移住者には入会を強要されることはないが、葬式などでは協力を得られなくなるため不便だった[16]。入会者に対して戦前までは、どこにいても必ず戻ってきて出席しなければならなず、また遅れたりした場合には酒を買ってお詫びしなければならならず出席について非常に厳しかった。[16]

おこもり

おしょうじんとは対称的に1960年(昭和35年)までは男の講も行われていた[16]。9月9日夕方に集まり餅をつき、その晩は集まった家に泊まる。そして9月10日の早朝、刈田嶺神社にお参りをしお札をもらって帰ってくる[16]。その内容は下記のとおりである[16]

  • 服装は白装束を纏い、草鞋を履き、ゴザを背負う[16]
  • 午前1時頃出発し、三途の川で下界から履いてきた草鞋を履き替える[16]
  • 山頂に着く頃に日が昇る[16]

ぶつきりしょうじん

田おこしは手で行われた。それが終わった時、餅をついてお精進した[16]新政府と宗教の変化 明治政府は修験道をはじめとする仏教と神を切り離す政策をとったため山岳で修行を行う修験を禁止し、修験者は天台宗真言宗の両宗に帰入するか、神官になり奉仕すべしとされた[5]

当地区でも修験者が神官へ転身した者がいた。菅生天神山屋敷の天神宮にあるお札によれば、修験寺であった長楽院の法印を務めていた菅山谷鬼が菅生地区民一同からの支援により、1907年に神官の資格取得の講習を受け、菅生神社の神官となった[5]

菅生神社 菅生神社(すごお-じんじゃ)は、桓武天皇の延暦年中(782~805)坂上田村麻呂東征の際、武甕槌神外五神を勧請し、国家安穏・産業振興を祈請した。そして、この宮祠を中心に七本の榧を植えたので、これを奥州の七本榧と称したという。今にその一株の古跡が現存する[5]

中世の冷泉天皇の時代に菅生助八郎がこの地を治めるようになった頃『六社権現或』と呼ばれるようになった。境内にある池の周囲に菅が多く生えており、これで神饌を編もうとしたことから菅生という地名になったと言い伝えられている[17]。このことから山岳信仰と親密な関係を持っていたことが窺える[5]

明治初期、修験道と切り離すこととなり社号を「菅生神社」に改めた。1902年1月に愛宕神社を合祀。1904年4月に村社格加列、1923年10月には供進社に指定された[18]

近年では、スポーツランドSUGOが氏子区域内に立地していることから、多くの利用者が参拝に訪れている[18]

円融山妙頓寺

鷹巣に久保田左衛門太郎が越中国滑川から移住し1582年天正10年)に開山した。寺は最初鷹巣屋敷にあったが、2代目了元の代に今の場所に移った。宗派は浄土真宗で仏殿は卯辰を向き、竪7間、横5間、本尊は弥陀如来となっている[5]

仲貴山龍雲寺

志田郡松山の石雲寺2世、英甫和尚が1688年元禄元年)に開山した。宗派は曹洞宗である[5]


  1. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2017年5月29日閲覧。
  2. ^ a b c d 下中直也『日本歴史地名体系第4巻 宮城県の地名』1987年
  3. ^ a b c d e f g h 下中直也『日本歴史地名体系第4巻 宮城県の地名』1987年
  4. ^ 竹内理三、高橋富雄『角川日本地名大辞典 4 宮城県』1984年
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl bm bn bo bp bq br bs bt bu bv bw bx by bz ca cb cc cd ce cf cg ch 村田町長 大平良治『村田町史』1977年
  6. ^ 村田町行政区長に関する規則”. 村田町. 2023年8月10日閲覧。
  7. ^ 紫桃正隆『史料 仙台藩領内古城・館 第四巻 』1974 247-250頁
  8. ^ 宮城県姓氏家系大辞典編纂委員会『宮城県姓氏家系大辞典』角川書店1994
  9. ^ a b c 中村安孝『柴田郡史』1972年
  10. ^ a b 川崎町史編纂委員会『川崎町史』1975年
  11. ^ a b 宮城県地方課『宮城県町村合併誌』1958年
  12. ^ 幼稚園について”. 村田町. 2023年8月10日閲覧。
  13. ^ 宮城県 設置廃止等学校一覧”. 村田町. 2023年8月10日閲覧。
  14. ^ 村田町立学校の指定通学区域に関する規則”. 村田町. 2023年8月11日閲覧。
  15. ^ a b 中村安孝『柴田郡史』1972
  16. ^ a b c d e f g h i j k 岩崎敏夫『東北民俗資料集(1)』1971年
  17. ^ 『菅生神社 御由緒板』
  18. ^ a b 菅生神社(すごおじんじゃ)”. 宮城県神社庁. 2023年8月10日閲覧。
  19. ^ a b c d e f 町の文化財”. 村田町. 2023年8月10日閲覧。
  20. ^ 村田町教育委員会『旧八巻家住宅 立て看板』1997年


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