若林幸樹
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/01 09:54 UTC 版)
人物
中学校の先輩忌野清志郎に傾倒し、エレキギターに目覚めハードロック少年となる。高校3年の時、隣に座る女生徒の家庭教師が映画の助監督をやっていて、出演者を捜している情報を聞きつけ、無理やり映画に参加。その映画が、石井岳龍(旧石井聰亙)監督のシャッフル (1981年)という作品だった。大学受験に失敗し、東京のデザイン専門学校へ。流されるまま大手印刷会社に就職。1年後に役職が付くが、部下と上司の板挟みに苦しめられ、おまけに色弱という色が分からない事に気付き、あえなく退社。
劇団員~ダンサーへ
高校時代に出演したあの快感が忘れられず、デビューという雑誌を見て、近かったのと手っ取り早かったというだけのことで、阿佐ヶ谷に会った劇団「遙」の門を叩く。研究生の後、劇団員になるが数年後に分裂。行き先を見失っていた所に、元マネージャから東京ディズニーランドのダンサーの仕事を紹介される。オーディションでは何も踊る事が出来ず、ただリズムに乗って笑顔で笑っているのが精一杯だったが、どういうわけか結果は合格。フラッグ隊としてスタートするが満足できず、死に物狂いでダンスのレッスンに通い続け、ショーダンサーとしての地位を得る。20代後半に差し掛かりダンサーとしての限界を感じていた頃、たまたま出入りしていたザ・ニュースペーパーのメンバーと知り合い、お笑いの道へ転身。
お笑い~役者へ
見習い期間を経て、社会風刺コントグループ「ザ・ニュースペーパー」の正式メンバーとして参加。主な役は、細川護熙・鳩山由紀夫・野茂英雄・ビンラディンなど。退団後、自分たちのお笑いを目指したいと、同じ事務所だった元U2ROCKETの石山博士とTNPメンバーだった福島カツシゲと共に、3人組お笑いユニット「COLORS」を結成。サンミュージックプロダクションやパパイヤ鈴木の プランチャイム などの芸能事務所を渡り歩き、それぞれの活動を重視したいと解散。現在は役者として芸能事務所希楽星に所属しながら、パントマイムやジャグラーなどのパフォーマーとして全国のイベントなどでも活躍。
舞台を中心にナレーションやドラマにも活動の場を広げ、俳優養成所「ワンネスアカデミー」「ヴォイス&アクターズ道場」・劇団・学校・カルチャーセンターで演技講師を務める。最近では、ベンチャー企業などの依頼を受け、新人研修の コミュニケーションプログラム の講師として指導をしている。
固有名詞の分類
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