川崎ローム斜面崩壊実験事故
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/02 14:20 UTC 版)
原因
この実験に際して、安全対策上の不備、特に
- 報道関係者に対する事前の連絡(警報、退避場所などの指示)が十分でなかった。
- 当日は地元の警察・消防に連絡をしておらず、立ち入り制限等の趣旨が十分徹底していなかった。
- 見学場所の17メートル後方、唯一退避できる方向に池があった。
- 崖崩れの流速について、およそ5秒から6秒程度で一番下のところまで流れてくるという予想が実際には2秒から3秒だった。
- 事前調査として行われたボーリングが深さ3メートルのものを3本行っただけであった。
- ローム層と粘土層との分かれ目(深さ約2.3メートルから2.7メートル)に亀裂が起こっていることが前日にはわかっていた。
などの点が挙げられている。
最初に崩壊した土砂は、丘頂部付近の固結度の低い二次堆積物で1958年(昭和33年)狩野川台風の際に崩壊・堆積した二次ロームと道路の拡張に伴いすてられた盛り土であったと報告されている[1][3]。
刑事裁判
この事故では、実験関係者ら2人が業務上過失致死傷の罪に問われて起訴された。事故から16年後の1987年(昭和62年)、横浜地方裁判所は「当時の学問水準では事故の危険性を予測することは不可能だった」などとして、2人の被告にいずれも無罪を言い渡した[6]。検察は控訴を断念。1審で無罪が確定した。
関連書籍
- 黒沼稔「科学技術庁のローム斜面崩壊実験事故と地方自治体--川崎市の事故調査対策委員会報告書を中心として」『自治研究』第48巻第6号、良書普及会、1972年6月、97-116頁、ISSN 02875209、NAID 40001553139。
- ^ a b c 羽島謙三「川崎市生田緑地における崩壊実験事故現場の地質と問題点」『地球科学』第26巻第2号、地学団体研究会、1972年、85-88頁、doi:10.15080/agcjchikyukagaku.26.2_85、ISSN 0366-6611、NAID 110007090497。
- ^ 守屋喜久夫、堀木正子著『川崎市生田緑地公園内のがけ崩れ実験惨事の地質学的考察』日本大学理工学部一般教育教室、1973年2月、国立国会図書館蔵書、2016年7月6日閲覧。
- ^ a b c d e 磯谷達宏「多摩丘陵生田緑地とその周辺地域における土石流発生の履歴 : 1958年狩野川台風来襲時を中心に」『国士舘人文学』第10巻、国士舘大学文学部人文学会、2020年3月、47-72頁、ISSN 2187-6525、NAID 120006897947。
- ^ 「がけくずれ実験で惨事 技術庁職員ら生き埋め」『中國新聞』1971年11月12日.1面
- ^ a b 守屋喜久夫、堀木正子「川崎市生田緑地公園内のがけ崩れ実験惨事の地質学的考察」『日本大学理工学部一般教育教室彙報』第14号、日本大学理工学部、1973年2月、83-87頁、ISSN 02867370、NAID 40018346311、2021年8月3日閲覧。
- ^ 横浜地方裁判所判決 1987年3月27日 昭和51年(わ)1152号 『大判例』
- 川崎ローム斜面崩壊実験事故のページへのリンク