許彦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/10 14:30 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動許 彦(きょ げん、生年不詳 - 441年)は、北魏の太武帝の寵臣。字は道謨、小字は嘉屯。本貫は高陽郡新城県。
経歴
後燕の高陽郡太守の許茂の孫にあたる。幼くして父を失い、貧家にあって成長した。読書を好んで、後に沙門の法叡に易の学問を受けた。太武帝の初年に宮中に召されて、卜筮をもって帝の側近に仕え、謀議に参与した。散騎常侍の位を受け、博陵侯の爵位を受けた。その性格は慎み深く、宮中の密事を漏らさなかったので、このため太武帝に親しく待遇された。武昌公の爵位を受け、安東将軍・相州刺史に任じられた。相州で賄賂を受け、法律に違反することが多かったため、太武帝に叱責された。しかし腹心の近臣として、罪に問われなかった。441年(太平真君2年)、死去した。諡は宣公といった。
子女
伝記資料
- >> 「許彦」を含む用語の索引
- 許彦のページへのリンク