沈尹戌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/11 19:20 UTC 版)
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姓:羋(べつ)
氏:沈尹(しんいん)
名:戌(じゅつ)
国籍:楚国
活動時期:春秋時代
知られている役職:左司馬
子女:沈諸梁(しん しょりょう)
沈 尹戌(しん いんじゅつ、?—紀元前506年)は春秋時代の楚国の大夫であり、楚平王の晩年から楚昭王の初期にかけて、国内の政治と外交に対して批判的な姿勢を示していた。
彼は楚の内政が混乱し、呉との戦争に連戦連敗していることから、いずれ楚は滅亡の災いに見舞われると考えていた。
紀元前515年、楚の令尹(首相)である囊瓦(子常)が郤宛(げきえん)を殺害した。楚の国民はこぞって郤宛のために哀悼の意を示した。沈尹戌は費無忌(ひぶき)と鄢将師(えんしょうし)が忠臣を陥れたと非難し、それを受けて囊瓦は後悔し、費無忌と鄢将師を処刑した。
紀元前512年、呉の公子である掩余(えんよ)と烛庸(しょくよう)が徐国から楚国に逃れてきた。楚昭王は沈尹戌に彼らを受け入れるよう命じ、呉と楚の国境に城を築いた。後に呉王・闔閭(こうりょ)が徐国を滅ぼしたが、沈尹戌は救援に間に合わず、徐の君主である章禹(しょうう)は楚に亡命した。
紀元前506年、呉楚の柏挙の戦いの後、沈尹戌は戦況を知り、息県から急行軍で呉軍を迎撃した。彼は夫概(ふがい)軍を破ったものの、呉軍に包囲され、重傷を負って脱出が不可能となった。そこで彼は部下の呉句卑(ごくひ)に命じて自分の首を斬らせ、遺体は埋葬し、首は布に包んで楚王のもとへ届けさせた。その後まもなく、楚の都・郢(えい)は陥落した。
葉公・沈諸梁および沈后臧は彼の子である。
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