恭順皇貴妃とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 恭順皇貴妃の意味・解説 

恭順皇貴妃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/07 15:20 UTC 版)

恭順皇貴妃
恭順皇貴妃 鈕祜禄氏

称号 如貴人→如嬪→如妃→皇考如貴妃→皇考如皇貴妃→皇祖如皇貴太妃→恭順皇貴妃(没後)
出生 乾隆52年4月12日
1787年5月28日
死去 咸豊10年6月14日
1860年4月23日
埋葬 昌陵
配偶者 嘉慶帝
子女 皇八女(夭逝)
皇九女慧愍固倫公主(夭逝)
皇五子恵親王綿愉
父親 善慶
母親 富察氏(嫡母)
楊氏(生母)
テンプレートを表示

恭順皇貴妃(きょうじゅんこうきひ)は、嘉慶帝の側妃。姓は嘉慶帝の2番目の皇后孝和睿皇后と同じ鈕祜禄氏(ニオフル氏)(孝和睿皇后とは高祖父同士が又従兄弟の関係)。父は善慶。

嘉慶6年(1801年) に如貴人として入宮する。

嘉慶9年(1804年) 、嘉慶帝は懐妊した如貴人を如嬪に封じた。

嘉慶10年(1805年) 、皇后鈕祜禄氏が皇四子瑞親王綿忻を産む数時間前に、皇八女を産んだ。

嘉慶15年(1810年)、嘉慶帝は懐妊した如嬪を如妃に封じた。

嘉慶16年(1811年)、如妃は皇九女慧愍固倫公主を産んだ。

嘉慶19年、皇五子恵親王綿愉を産んだ。

嘉慶25年(1820年)、嘉慶帝が崩御し、道光帝が即位すると、皇考如貴妃に尊封された。

道光26年(1846年)、如貴太妃は皇考如皇貴妃に尊封された。

道光26年(1846年)、道光帝が崩御し、咸豊帝が即位すると、如皇貴太妃は皇考如皇貴太妃に尊封された。

咸豊10年(1860年)、逝去し、『恭順皇貴妃』の諡号を贈られ、昌陵の妃園寢に葬された。

子女

  • 皇八女:(夭逝)
  • 皇九女:慧愍固倫公主(夭逝)
  • 皇五子:恵親王綿愉

伝記資料




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  恭順皇貴妃のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「恭順皇貴妃」の関連用語

1
10% |||||

2
4% |||||

恭順皇貴妃のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



恭順皇貴妃のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの恭順皇貴妃 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS